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2009年10月29日 (木)

09年10月下旬の夜の西武4000系回送列車

2009年10月23日(金)の20時20分すぎ、西武池袋線・小手指車両基地の入り口に車内の明るい4000系が1本 見えました。
武蔵藤沢駅で待っていると21時13分に4001Fの下り回送列車が通過して行きました。小手指車両基地から武蔵丘車両基地へ4000系が戻る時のいつものスジでした。

091029huzi
2009年10月23日 21時13分頃、武蔵藤沢、4001Fの下り回送列車。

また10月26日(月)の20時29分頃、4000系の上り回送列車と稲荷山公園駅ですれ違いました。
北辰の梟のヘッドマークが付いていたような気がしました。
その後 今晩まで、小手指車両基地で4000系は見かけず、どこへ行ってしまったのか?

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コメント

subway国分寺線の話
 ちょっと間が開いてしまいました。再び続けます。

 川越と都心を結ぶ蒸気鉄道として発足した川越鉄道は甲武鉄道に運営を委託、その支線のような形として位置づけられていたことは前回述べました。
 1906年(明治39)、甲武鉄道が国有化されて中央本線となりましたが、川越鉄道は国有化されず、そのまま独立することとなりました。さらに同年、川越電鉄が川越久保町-大宮間に軌道線を開業させたことにより、川越に唯一存在していた鉄道という性格が揺らぎはじめ、1914年(大正3)には東上鉄道が池袋-川越町間が開通したことにより、どんどん川越鉄道の存在意義が薄くなってしまいました。川越の人にとっては東上鉄道は最短距離で都心まで行ける便利なものだけに、わざわざ所沢、国分寺を経由するルートは不要と思うようになったのは当然といえば当然でしょう。
 所沢の人にとっては、引き続き国分寺あるいは川越を経由して都心へゆかなければならなかったところへ、1915年、武蔵野鉄道が開業し、池袋から飯能までがつながったことにより、東上鉄道の開業からわずか1年で所沢の人たちも直接都心へ行ける鉄道を持ったことになります。
 このように次々と川越や所沢が都心と結ばれ、しかもすべて電気鉄道であったために、SLが客車を牽引する川越鉄道はあらゆる点で見劣りするようになり、中央、武蔵野、東上各幹線を連絡するローカル鉄道に転落、たちまち経営の危機がおとずれました。 つづく

投稿: 縁有外史 | 2009年10月30日 (金) 20時43分

motorsports国分寺線の話

 東西に延びる中央線や武蔵野鉄道、東上鉄道と異なり、南北を走る川越鉄道はその性格から競合路線とはなっていないものの、前述のように川越や所沢といった土地はそれぞれ都心と直通する路線を持ったこと、川越、所沢、東村山、国分寺それぞれを行き来する人はごく少数であることなどから、経営基盤そのものが弱体化しました。
 そこで採られた打開策が電化。とはいえ、自力で発電設備を持つほど資金は持っていません。そのため電力会社の武蔵水電と合併しました。
 明治、大正の頃は今と違い、発電会社が無数に作られ、大企業、財閥が発電事業を持つのは一種のステータスシンボルにまでなっていました。
 一方、現在に比べると家庭や商店、学校その他の施設や事業所における電力の需要量は微々たるものでしたから、発電しても電気が余ってしまう。そこで、電力会社は余業として電鉄事業を展開したり、鉄道会社と提携を結ぶことが盛んとなりました。私鉄の歴史を見ると、草創期に発電会社がかかわっていたり、川越鉄道のように合併する路線が散見するのは、そういう風潮だったからです。

 これとは別に帝国電灯という会社が鉄軌道部門を持っており、更には新宿線の前身、武蔵鉄道というものが設立され、帝国電灯と武蔵水電が合併統合されるに際し電力事業一本でやることとなり、鉄軌道部門は独立した上で武蔵鉄道に合併、武蔵鉄道は西武鉄道(旧)と改称されました。これにより、川越鉄道は電力会社の動きに連動する形で経営母体が変わり、ついには旧西武の路線として組み込まれました。この時点では国分寺-川越間は「西武鉄道川越線」となりました。
 なお、いろいろな資料やガイドブック等ではみな複雑なためにせっかくの説明や図が混乱し、川越電灯とか神奈川水電といったものが記載されているものもあります。もちろんこれは間違いではなく、これらの名前が出ているほうが詳しいのですが、文章のみのここでの記述は混乱を避ける意味からあくまで鉄道を中心とし、電力会社同士の離合集散などは割愛します。

 また、もう一つの甲武鉄道の支線、多摩鉄道(のちの西武多摩川線)は川越鉄道と盛んに車両の交流があって関係が深かったのですが、それについては多摩鉄道の回に譲ります。 つづく

投稿: 縁有外史 | 2009年10月31日 (土) 06時10分

縁有外史さん、こんばんは。

多摩鉄道の開業は1917年で、甲武鉄道の国有化は1906年ですから、「もう一つの甲武鉄道の支線、多摩鉄道」は誤りではないかと思います。

また武蔵野鉄道や東上鉄道で池袋と結ばれても、地下鉄がない当時、池袋だっていいとこ田舎町と思われ(学校は多かったようですね)、山手線がないとあまり意味ないよなと(命名100周年の世間の眉唾に気付いて以来 疑り深いです、済みません)思いましたが、1903年 池袋~田端間が開業、1919年 のの字運転開始、1925年 環状運転開始でした。頻発運転すれば、川越鉄道に活路は拓けた気もします。川越は難しいかも知れませんが、所沢ならば競争できたと思う次第です。

また西武新宿線の東村山以東は、東京都(当時は東京府?)のダム湖建設用専用線が母体となったお話に感動しましたが、武蔵鉄道にしてみれば路線設計を一部 省略できるわけでメリットはあったのでしょうね。

ダム湖建設用の専用線をわざわざ高田馬場あたりから引くのも無駄、実際に建設されなくて当然なわけですが、武蔵鉄道関係者が都庁(府庁?)で暗躍していたりしたのかもしれませんね。

なお歴史的事項についてはウィキペディアが出典です。

投稿: 鈴木やす | 2009年10月31日 (土) 22時49分

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