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2009年8月 9日 (日)

09年8月9日は銚子方面へ行ってきました

2009年8月9日(日)はJR東日本で銚子まで行ってきました。

銚子駅から発車するクモハ211-3041ほかの446Mです。

シングルアームパンタと菱形パンタを両方あげての走行は新鮮です。



2009年8月9日、銚子、クモハ211-3041ほかの446M。


2009年8月9日、銚子、クモハ211-3041ほかの446M。

旭駅で交換した5355Mです。クハE257-512ほかでした。成東駅まで特急しおさい5号(1005M)で走ってきた車両が同駅から各停となり銚子駅へ向かっています。



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2009年8月9日、旭、クハE257-512ほかの銚子ゆき普通(5355M)。

貫通扉のLED表示は縦書きで「普通」です。

成田線椎柴駅の前後では、沿線(線路の南側)に風車が計10基ほど見えました。



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2009年8月8日、椎柴駅付近、山の上に風車が立っている模様です。ここは3基あるようでした。

ときに強い雨に列車内で遭遇することはありましたが、街を歩いているときは遭遇せず濡れずに済み、助かりました。


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コメント

ということは普通運賃だけでE257系に乗れるってことですかね。

それに乗れるとかなりお得な気がしますね。

投稿: もっさん | 2009年8月10日 (月) 02時20分

 短距離特急でも末端区間が普通となるのはおもしろいことです。かつてのブルトレでも同じようなことがありましたが。

●ちょっと(だいぶ!?)前の話
「国鉄と一体化の駅・国分寺」

 昔日のおもかげがまったくないほど変貌してしまった国分寺。以前は中央線においては特別快速すら通過する小駅扱いだったものの、2つの西武線、それに下河原線という魅力ある支線、そして多くの留置線には絶えず貨車が群れをなすといった、私にとっては最高の駅でした。
 西武多摩湖線は351系で、晩年は中間のサハが更新されてしまいましたが、もとはクハで、運転台はもちろん撤去されたものの、乗務員扉はそのままで、運転室のあった部分は座席がなく、なんともいえない風情でした。
 中央線は新宿を起点・終点とする長距離の普通電車が数多くあり、新宿の次は立川に停車となっていて、この間は普通にもかかわらず豪快に飛ばしまくっていたほか、新宿寄りには荷物電車が2両もついているのがかなりありました。荷物電車といえば新聞輸送のクモニ13の単行もあり、高校に通っていた頃には、夕方の帰宅時20分に1本しかなかった国分寺線のホームにたたずみながら、特急から荷電、貨物まであらゆる種類の列車が行き交う中央線を眺めて時間のたつのも忘れたほどです。
 夜には夜行の旧型客車列車もあったし、ディーゼル急行も高校入学時まで走っていました。

 さて、前置きが長くなりましたが、以前の国分寺駅は実に奇妙な構造をしていました。そして、二つの西武線はもともと成り立ちが別であった、ということを大改修直前まで実感させられたものでした。
 基本的な構造は今と同じです。国分寺線のホームは中央線と並行し、多摩湖線は上にあがった所にひっそりとある。
 改札口は西武とJRは別で、乗り換え客のための構内改札もありますが、以前は国分寺線と国鉄が一体化しており、二つの跨線橋で結ばれていました。国分寺線といえばもと川越鉄道で、事実上中央線(甲武鉄道)の支線であったことから、当然一体化していました。明治期の古い写真を見ると、改修直前までほとんど同じ姿なのに驚かれますが、駅本屋のある1番線が国分寺線、島式ホームの中央線が2、3番線(下河原線は4、5)と、西武側から番線が割り振られていたのは今では無いことだけに誇らしい感じがします。/つづく

投稿: 縁有外史 | 2009年8月10日 (月) 06時47分

みなさま、こんばんは。

房総地区には、特急が末端区間で普通になる場合がけっこうあります。E255系にも運賃だけで乗れるかもしれません。
  > もっさん

昔のお話、ありがとうございます。
  > 縁有外史

投稿: 鈴木やす | 2009年8月10日 (月) 21時22分

 台風に地震、大きな災害が起きると頼りになるのは行政であり現政府、政権。今、政権が変わったら災害復旧は満足にできないのでダメだ、ということで急速に与党支持が増えるといいます。夏は災害が多発する時期。まさかこれを期待してわざと解散から総選挙までの期間をうんと長くとったわけではないでしょうが、いやな雰囲気になってきたことは、各メディアとも内閣支持率がアップし出したことでもわかります。

●ちょっと(だいぶ!?)前の話
「国鉄と一体化の駅・国分寺」(つづき)

 西武鉄道は公式の社史は編纂していないし記録もしていない、となにかの書物に書いてありました。真偽のほどはわかりませんが、成り立ちから変遷が複雑なのはご存じのとおり。そして、短い距離にもかかわらず基本的には萩山で分断して運行しているという点も珍しい一支線の多摩湖線こそが、西武財閥(堤一族)の始祖「箱根土地」によって作られた由緒あるものであることも周知のこと。多摩湖線と国分寺線が交わる八坂付近でなぜ同じ西武なのに駅がないのか、とよく遠方に住む方や鉄道に詳しくない方が疑問を呈しますが、それぞれ別の会社にしてライバル関係にあったからです。

 それはさておき、同じ国分寺駅でありながら国分寺線は中央線と寄り添っていながら、多摩湖線のホームは上にあがって右に曲がり、しばらく歩いた所にあります。ただ、現在は同じ西武線ということで一つの構内を形成していますが、大改修前はまったく違っていました。
 以前の多摩湖線のホームは、今よりもっと手前、つまり国分寺線のホームがあるギリギリのところにありました。国分寺線ホームからみると、ガケの上に斜めにクモハ351の前面が突き出すような感じです。
 これほど近い所にありながら、国分寺線と多摩湖線は構内改札によって分断されていました。このため、当駅から次の一橋学園に行く場合、切符を買ってまず中央線と国分寺線共用の改札を通り、南北両口を結ぶ跨線橋を上がります。当時の多摩湖線ホームはこの跨線橋の北の先にありました。そして、ホームの入り口にまた改札があって、ここで同じ切符を提示して通る、というようになっていたのです。
 例えば、所沢から国分寺経由で一橋学園に行く場合も同じ。この構内改札でわざわざ同じ西武線なのに切符を見せて通るというわけです。
 ただ、この改札もいつしか駅員がいなくなり、改札そのものは改修直前まで残っていましたが、みなそのまま素通りするようになりました。
 
 このように、以前の国分寺駅は国分寺線と中央線が一体化し、初期の軽便時代を思わせる小ぶりでローカルな感じの多摩湖線だけが別扱いになっていました。
 多摩湖線は短距離にもかかわらず、もとは駅が今の倍近くもあり、その遺構も以前にはよく残っていました。これについてものちほど取り上げたいと思います。

投稿: 縁有外史 | 2009年8月11日 (火) 11時16分

縁有外史さん、こんばんは。

351系時代の多摩湖線には何度か乗りに行きました。国分寺駅は改良されてきれいになりましたね。北口の駅前は更地が残っているようですが、そのうち駅ビルでも建つのでしょうか。

多摩湖線はあの短い線にもっと駅があったとは、面白いですね。またのコメント、お待ちしております。

投稿: 鈴木やす | 2009年8月12日 (水) 21時32分

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