曼珠沙華観賞客輸送で賑わう09年9月21日の西武・飯能 界隈
2009年9月21日(月・敬老の日)は、飯能~高麗間をメインに組まれた臨時ダイヤを観察すべく、ほとんど一日中 飯能駅周辺で過ごしました。
池袋線・高麗駅が最寄りの巾着田の曼珠沙華を訪れる観光客輸送のための臨時ダイヤです。
臨時列車の1本目は、飯能駅から高麗駅まで延長運転となった特急 むさし67号(池袋 8時0分発)です。飯能までは「むさし」表示でしたが、飯能からは「臨時」表示に変わりました。
純粋に増発のむさし91号(池袋9時0分発・高麗ゆき)と同93号(池袋10時0分発・高麗ゆき)はともに、全区間「臨時」表示で運転だったようです。
高麗駅まで走った3本のNRA10000系は折り返し回送となっていました。
むさし67号だった10104Fは9時17分に飯能駅特急ホームへ到着すると、9時35分発のむさし74号(定期列車)になっていました。
むさし91号だった10105Fの上り回送列車は10時13分に飯能駅の6番線(?、1番ホーム南側の側線)に到着し10時33分に池袋方へ発車して行きました。
むさし93号だった10107Fは、上り回送列車で11時13分に飯能駅6番線へ入り、11時17分に池袋方へ回送されました。
また復路は、高麗駅14時35分発のむさし92号と15時35分発の同94号が運転されました。
92号の10108Fは高麗駅1番ホームへ14時23分に回送で到着しました。
むさし94号の10105Fは、15時14分に池袋方から飯能駅特急ホームへ回送で到着し、高麗駅へ回送されていました。
飯能~高麗間をほぼ30分おきに運転された臨時の各停は朝夕の一部をのぞき3007Fでした。朝の1003レ(池袋 7時34分発・快速急行 西武秩父ゆき)だった編成です。
5022レで飯能へ戻ると、折り返し10時54分発の高麗ゆきに充当され、高麗駅15時41分発の臨時 飯能ゆきまで3007Fがピストン輸送にあてられていました。15時48分に飯能駅へ到着すると、回送となって15時55分に池袋方へ発車していきました。
午前中の飯能~高麗間の臨時各停は、飯能 9時3分発と55分発・10時24分発だけ、3007Fでありませんでした。
9時3分発は4011F、9時55分発と10時24分発は(<-飯能)1245F+1247Fでした。前者は5014レで到着した編成、後者は1001レ(池袋 7時4分発・快速急行 西武秩父ゆき)~5018レと走って飯能駅へ戻って来た編成でした。
午後は、3007Fが退場後の高麗駅16時30分発が3011F、16時54分発が1303Fでした。
3011Fは2139レで飯能駅 到着後、下り方へ回送された編成でした。
1303Fは、西武秩父方から回送で飯能駅へ到着し、5013レ(飯能 10時4分発・各停 西武秩父ゆき)から飯能~西武秩父間を往復していた編成です。5042レ(西武秩父15時7分発・各停 飯能ゆき)で飯能到着後、回送で仏子駅中線に送られ、16時20分に飯能駅 特急ホームに戻ってきた編成です。16時24分に特急ホームを発車し西武秩父方へ去っていきましたが、最後の臨時列車で飯能駅へ戻って来ました。
1303Fは17時1分に飯能駅へ到着すると、17時4分に池袋方へ回送で発車し、もう一度、仏子駅中線へ送られました。そして17時19分に再び飯能駅へ戻って来ましたが、今度は、ホームのない6番線へ入りました。そして17時24分に、西武秩父方へ発車して行きました。1303Fは連休初日の19日(土)からこの運用に入っている模様です。
1001レに入り、2本目と3本目の下り臨時 高麗ゆきに充当された(<-飯能)1245F+1247Fは、11時0分ころに上り回送列車で飯能駅へ戻ると、5017レ(飯能 11時4分発・各停 西武秩父ゆき)に入りました。飯能~西武秩父間を2往復し、最後に5033レで西武秩父へ送り込まれました(15時57分着)。
折り返しは池袋ゆきの快速急行(飯能から1106レ)となり、飯能界隈から姿を消しました。
(<-飯能)4003F+4011Fの5035レ(飯能 15時34分発)を最後に西武秩父ゆきは4000系4連となりました。5037レ(飯能 16時15分発)は4019F、5039レ(飯能 16時54分発)は4001Fでした。ともに西武秩父方から回送で送りこまれていました。
ただ4003F+4011Fの5046レの折り返しの5041レ(飯能 17時33分発)はそのまま8連でした。
日中は(<-飯能)4009F+4023Fを5031レなどで見かけましたが、4009Fは西武秩父(または横瀬?)で切り離した模様で、北辰の梟HMの4023Fだけが5048レで17時51分に飯能駅へ戻って来ました。折り返し5043レ(飯能 18時3分発)となっていました。
なお4011Fは、飯能駅9時4分発の、1本目の高麗ゆき臨時だった編成です。
上り回送で9時32分ころ飯能駅へ戻って来ました。その前に、4003Fの5016レ(西武秩父 8時30分発)が同駅 2・3番ホームに到着していました。
4011Fは一旦、2・3番ホームの手前で停車し、入換標識が進行現示となったところでゆっくりと進入し、4003Fと連結しました。そしてこの4+4連は折り返し、5011レ(飯能 9時43分発・各停 西武秩父ゆき)となりました。(この項は9月22日20時40分追記)
曇っていましたが、午後の高麗駅前は観光客で賑わっていました。乗車率も良かったようです。高麗駅で発売していた特急券は、ちちぶ24号・26号、むさし92号いずれも売り切れ(満席)でした。
東飯能駅で接続しているJR八高線のホームも混雑していました。
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コメント
長時間の取材、お疲れさまでした。時間をかけなければわからないことも多いので、いろいろ知ることができて参考になります。特別輸送の記録、これからもできるだけ続けて下さい。
●雑記 昔の広告より
鉄道ファン1967年10月号 通巻76号
本号の裏表紙に「西武電車」の全面広告が載っています。白と黒、それにピンクと紫の中間のような色の3色で、今に比べたらデザインも単純ですが、なにもかも歴史を感じます。画像は「スイスの鉄道」と「スイス製E51電気機関車」(今はなき所沢の車庫前)の2点が中央やや上寄りに並んで配置されています。
以下、広告の文面です。(「交通」の線名は広告のまま)
[表題]ユネスコ村《観光と鉄道》
スイス展
9月24日オープン
入園料=おとな100円・こども50円
交通=西武池袋線 狭山湖駅下車
主催=朝日新聞社
〈特別展示〉スイス製E51(旧ED12型)電気機関車
内容
●スイスの鉄道〈鉄道研究家 本島三良先生監修〉
●アルプスを征服する鉄道
●ユングフラウ鉄道
●スイス国際鉄道
●電車 電気機関車のいろいろ
●切符 ダイヤ 周遊券
●メルクリン模型列車
●スイスの観光
●当社秩父線建設コーナー
以上写真パネル・模型パノラマで
わかりやすく解説します
西武電車
=広告ここまで=
投稿: 縁有外史 | 2009年9月22日 (火) 06時07分
縁有外史さん、こんばんは。
としまえんでネコ・パブリッシングの「Rail Magazine」が主催なのか、昨年から「鉄道&バスフェスタ」が開催されていますが、今年も11月7日・8日で開催なようです。入園料1000円なので行くつもりはありませんが。
1967年のこのイベントだったら、行ったかもしれません。当時はスイスの鉄道情報など稀少だったのでしょうね。
投稿: 鈴木やす | 2009年9月22日 (火) 21時06分
こんばんは。
4011Fが4003Fと飯能駅で連結して5011レとなるお話を追記しました。
投稿: 鈴木やす | 2009年9月22日 (火) 21時07分
高麗といえば、その手前の武蔵丘信号所、そのまた手前に天覧山という駅がありました。その名の通り、観光目的のための駅ですが、そのため例によって戦時中の不要不急駅は閉鎖すべしという国策によって1945年2月3日に休止、そのまま戦後の1954年10月10日に廃止となりました。
廃止された駅には魅力的な駅名が多く(あくまで私個人の感覚ですが)、「天覧山」もその一つ。今あればおもしろいのになぁ、と思います。
●昔の記事より
鉄道ピクトリアル1970年1月号(通巻233号)
★西武秩父線ニュース
①横瀬検車区
当面FC専用だが、将来EL・EC等も予定しており、屋外3線、屋内に30mと60mのピット線各1線を含む4線があり、主要機械はCP2基、酸素溶接機2基、5t天井クレーン、大型グラインダ、ボール盤、自動万能木工盤、T4型旋盤各1基がある。配置されているのはD22と救援車1両で、その他に工事区所属のモーターカー(西野製)がある。救援車は型式称号・番号はなく、鉄道車両工業製(前所有電源開発KK)で荷重2t、自重3.2tの凸型、自連はなくバッファー付きである。
②三菱セメント関係
第2期工事完了により最大月産9万5千tが可能となったため、東横瀬駅構内入換用として44年10月、日車名古屋で15tDLを新造した。最大寸法6500×2740×3351、製番2796で本機にはヘッドライトおよびNoプレートはついていない。
私有貨車は、タキ1900形で44年8月川重製の荷重40t、自重13.8tと、テキ401形で44年10月若松車両製の荷重37.5t、自重21.5tの2形式だが、台車はともにTR209Bである。テキは東横瀬-狭山ケ丘間専用のため、車籍は西武鉄道にある。
以下、つづく(秩父市・加藤隆)
投稿: 縁有外史 | 2009年9月23日 (水) 06時10分
縁有外史さん、こんばんは。
昔の雑誌記事、ありがとうございます。
ご存知と思いますが、天覧山という地名は、明治天皇が演習を視察したことが由来ですね。今では演習など絶対に不可能ですが、当時の飯能周辺には原っぱが広がっていたのでしょうね。
投稿: 鈴木やす | 2009年9月23日 (水) 21時09分