西武9101Fと9104Fの座席がバケットシートに
2009年9月25日に気付いたのですが、西武池袋線の9101Fと9104Fの座席が、座面だけバケットシートタイプに交換されていました。背ずりは凸凹しておらず、水平方向は平べったいままです。
写真は2009年9月27日撮影の9801車内です。
一人用のスペースが明示されていますが、シルバーシートは銀色(?)無地でした。
9000系は制御装置のVVVFインバータ化が行われ、9105Fだけはこのとき座席がバケットシート化されていました。スタンションポールも座席中央に立ちました。
今回の9101Fと9104Fは制御装置の更新は以前に実施済みです。またスタンションポールは設置されていません。
ブログ"Rapid Express"さんの「9101Fの座席がバケットシートに」(9月16日付)を見て、そう言えば9104Fのシートがバケットタイプだったかも、と思いつきました。
9104Fは最近出場ですので、検査と合わせてシートを交換したのかもしれません。
この9101Fと9104Fの背ずりは縦にシワが寄っているところがあります。バケットタイプの本来は凸凹フィット用のモケットを、平べったい布団に被せているためかと思ったら、N2000系の無地赤茶色の座席の背ずりにも縦シワがありました。詳細は不明。
(シルバーシートと背ずりの縦シワを10月3日 21時45分追記)
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コメント
●上水線の成り立ち
引き続きこちらで変遷をご紹介します。
地元の足と「佼成霊園」墓参客のためにスタートした西武鉄道上水線。「立川工場」は駅のすぐ南を流れる玉川上水にちなみ、「玉川上水」として開業しました。
前史をどのようにとらえるかで説明も変わってきますが、旅客駅としての玉川上水駅を説明するなら、1950年の開業時からでよいでしょうし、いや、実はその前から貨物駅として同じ場所にあった、ということを加えたいなら、立川工場駅時代のことから説き起こしたほうがよいでしょう。ただし、日興工業は終戦時に立ち上げられた整理会社なので、戦時中の専用線敷設の話と日興工業を一緒にするのは間違いです。あくまで日立航空機専用線で、運行は西武が担当していました。
さて、わずか1両の気動車が1時間に1~2本という軽便鉄道さながらのスタイルとはいえ、西武にとって戦後初の新線として盛大な開通式も行われました。また、途中の青梅街道と交差する青梅橋に新駅「青梅橋」(現・東大和市)も作られ、戦後復興の波に乗って発展してゆくものと期待されました。
ところが、連合軍(進駐軍)が日本駐留を終えていよいよ日本の独立が決まった矢先に、いったい日本の政府や官僚というのは誰のためにあるのかと憤りを覚えてしまいますが、立川基地駐留の軍人やその家族のための兵舎を建設するということで、外務省が一方的に玉川上水北側にある広大な西武鉄道の土地を接収し、米軍に提供(上納)してしまったのです。これが以前紹介した米軍大和基地で、フェンスで囲まれた広大な土地の脇を遠慮するように西武電車が走っていた姿を御存じの方もおられると思います。
大和とか基地というと神奈川県のそれを思い浮かべますが、都内にあったものを指します。
このため、西武では土地に住宅や車両基地を作って輸送を活発にさせようとした目論見が壊され、地元自治体も突然の基地建設に猛反発しましたが、あくまで西武の私有地ということ、しかも一時とはいえ国策工場の土地であったことで、国に押し切られてしまいました。今も沖縄そのほかの基地や「おもいやり予算」で日本政府が米軍にばかり気を使っていることが問題となっていますが、これは戦後すぐの時から続いているわけです。
駅周辺が基地になってしまったことで、上水線の発展は見込めなくなり、支線でも最悪の盲腸線になる気配が濃厚となってきました つづく
投稿: 縁有外史 | 2009年10月 3日 (土) 11時37分
縁有外史さん、こんばんは。
堤さんの目論見が外れてしまったわけですね。
占領時代は、GHQに絶大な権力を振るわれたわけですが、...。そう言えば、西武の「白帯車」(占領軍専用車)はあったのでしょうか?
投稿: 鈴木やす | 2009年10月 4日 (日) 21時51分