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2009年9月27日 (日)

尼崎脱線事故で井手・JR西日本元会長不起訴は政治的配慮?

2005年4月25日にJR西日本 福知山線の尼崎~塚口間で列車が脱線し107名が死亡した事故の調査で、JR西日本の山崎 正夫氏が、国土交通省の航空・鉄道事故調査委員会の山口 浩一・元委員に、JR西日本に有利な調査報告となるよう働きかけていたと明らかになりました。

働きかけは2006年5月から数回あったようですが、2007年6月28日公表の調査報告書に影響はなかった、とされています。

事故当時の社長は、2003年4月就任の垣内 剛氏です。

話題の山崎 正夫氏は1998年6月からジェイアール西日本メンテック代表取締役副社長、1999年6月に同社代表取締役社長、2005年6月 JR西日本代表取締役社長兼執行役員と、2006年6月27日提出の第19期有価証券報告書にあります(尼崎の脱線事故は第19期に発生)。事故当時、山崎氏はJR西日本にいなかったような感じを受けますが、ウィキペディアによると2002年6月からJR西日本の代表取締役副社長兼総合企画本部長だったようです。

悪名高い井手 正敬氏は、2003年にJR西日本 取締役相談役に就いていたようですが、脱線事故の責任をとって2006年6月に退任したためか、第19期有価証券報告書からは消えています。

刑事裁判で神戸地方検察庁は、事故現場の曲線をきつくしたJR東西線(1997年3月8日開業、京橋~尼崎)乗り入れ工事で、速度照査機能を持つATS-Pの導入を見送った経緯に注目したようです。

意思決定の経緯を調査し、当時の鉄道本部長(1996年6月就任)だった山崎氏を在宅起訴しています。井出氏は1992年 代表取締役社長、1997年 取締役会長就任です。

工事の当時、井手氏は社長でした。しかし1996年に起きた函館本線の貨物列車脱線事故(居眠りによる速度超過)の報告を受けていなかった、という理由で神戸地検察庁は井手氏を不起訴としています。

おかしな話です。

1996年の函館本線の貨物列車脱線事故で、事故現場は数日間不通となり、JR北海道は代行バスを運行しましたし、JR貨物は10億円ほどの損害を受けています。

同業他社の大事故を、JR西日本の社長が知らなかったのでしょうか?

そして、事故原因にまったく興味を持たなかったのでしょうか?

企業統治?、内部統制??、コーポレートガバナンス???

井手氏は、JR東日本の松田 昌士氏、JR東海の葛西 敬之氏とともに「国鉄改革3人組」と呼ばれ、労働組合が強かった国鉄の分割民営化(労組の弱体化)に大いに尽力されました。

政治的配慮から、井手氏の起訴が見送られたと思われても仕方がありません。

事故調査委員会に、組織的に働き掛けたとも見えるJR西日本のモラル欠如はこのようなところに原因があるのかもしれません。

井手氏は人間として何をなすべきでしょうか?

またATS-Pの有無に関わらず、日勤教育など、とうてい合理的と思われない社員教育がJR西日本では行われていました。

日勤教育の是非を譲るとしても、自社の運転士が大事故を起こしたことは事実です。

事故の運転士は何度もオーバーランしていました。誰かが交代させるべきだったと、私は思います。

しかし、そのような仕組みや環境はなかったのでしょう。

経営陣の怠慢です。

その責任がなぜ問われないのか、不可解です。

企業統治?、内部統制??、コーポレートガバナンス???

株主様のためだけのもの?

<2009年9月27日21時35分追記>

ついヒートアップして、資本主義を批判する文を綴ってしまいましたが、人殺しをするのも人間ならば、人助けをするのも人間。

不完全な資本主義社会ですが、成長を暖かく見守りたいと思います。粉飾決算がなくなるだけでも、資本主義にとっては大きな、とてつもない前進なんです、きっと。(粉飾決算ゼロは、多くの普通の人には当たり前、とは思いつつ。)

とは言うものの、犠牲者は最小限に止めるべきで、信賞必罰は当然のことであります。

なお選挙だったか、日本共産党のビラを配っているおじいさんに、共産主義社会はいつ実現するのですかと尋ねたら、200年後くらいじゃない、とのことでした。念のため。


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コメント

多分政権交代が無ければ、この事実発覚は無かったと考えられます。
群馬県のダム建設をしている企業に国土交通省の役人が大量に天下りしていた事実も同様!
これからどれだけ暴かれるのか、恐ろしいと感じる。
まさかルーマニアのチャウシェスクが殺されたようにはならないが、小泉に騙されたと思う自民党員も数多く存在する!
国鉄民営化と郵政民営化を同じに思わせたペテン!

投稿: 自由新報 | 2009年9月27日 (日) 22時56分

 力の入った論考、こちらも気合を入れて拝読しました。全国を結んで中央集権化を促進するために明治時代に始まった鉄道の歴史を振り返ると、常に政治的なことがからんでおり、日立航空機専用線もそれに類するのですが、分割民営化とはなんだったのか、国労や動労といった組合問題(これは103系の構造に影響を及ぼしたということは有名で、追って紹介します)等、私なりの愚考を改めて述べたいと思います。
 
 初代の2000系が登場した時、その形式を見て、ついに西武も国鉄臭から脱却し始めたな、と少し残念に思ったものの、旧国電や101系などの国鉄電車とともに西武でも愛用(?)されてきたグロベン(グローブ型ベンチレーター)がなおも踏襲されているのを見てほほえましく思ったものです。
 今でも屋根上のこれを見るたびに、なつかしさを感じます。
 逆に、西武の元祖101系が当初、一時分散型クーラーを載せたものがありましたが、これは京王や東急など私鉄ならではのもので、複雑な気持ちにさせられました。が、ほどなく集中型に変え、これは国電が積極的に採用したものだけに、やっぱり国鉄風がいいみたいだな、とこれまた複雑に思ったことです。

投稿: 縁有外史 | 2009年9月28日 (月) 06時02分

みなさん、こんばんは。

報告書漏洩の件は、神戸地検で遺族に捜査資料を公開する件が関係していたと朝日新聞にありました。遺族の皆さんが公開を求め、公開スケジュールが決まっていたが突然 4日後に延期され、その間に漏洩問題が公になったとか。
  > 自由新報さん

鉄道には巨額のお金や、多くの労働者・利用者がいますので、必然的に政治が関係することになりますが、政治が歪んでいたわけですから、JR西日本のようなおかしな鉄道会社が出てくるのは当然かもしれませんね。
  > 縁有外史さん

投稿: 鈴木やす | 2009年9月28日 (月) 22時19分

 上水線の成り立ちの答え、もう1~2日様子を見てからにします。

●雑記 昔の記事より
鉄道ファン1966年12月号 通巻66号

西武701系         寺田牧夫
 昭和38年に第1編成が登場してから、本年11月1日で148両になった701系は、601系の28両と合わせ西武の新性能車として、全車両の37%をしめるにいたった。この701系は明年6月までさらに48両を増備し、7月からは応荷重装置付台車の新形車が登場するとのことである。
 なお、41年度製は前面腰板部のみ衝突事故等に対処し、厚さ6mmの鋼板を使ったため前面窓下に段がついた。

 

投稿: 縁有外史 | 2009年9月29日 (火) 05時39分

●上水線の成り立ち
 あまり興味がない方も少なくないかもしれませんが、特にこれといった回答というか反応もないようなので、おそらくこれが最も詳しい説明となると思いますが、西武拝島線のうち小川-玉川上水間の成り立ちについて紹介します。
 といっても、答えはひとことでは言えないほど複雑で、それでもあえてひとことで極論すると、なんと「西武鉄道」が答えとなるのです。
 しかし、これでは誤解されてしまうので、以下、順序立てて説明しますが、コメント欄ということもあり、小分けにしてお話します。

 まず、専用鉄道が敷かれる原因、というと言葉がおかしいですが、日立航空機という会社(工場)について。
 日立とあるように日立製作所の関連会社ですが、もともとは東京瓦斯電(ガスでん)という会社でした。戦前に誕生した古い会社です。
 やがて国策により(早くも国策が登場し、戦後までこの路線は国策に翻弄され続けることになります)新興財閥の日産コンツェルンの傘下たる日立製作所の支配下におかれ、社名を「日立航空機株式会社」と変えました。そして、航空機のエンジンを製造する軍需工場となりました。
 今もそのようですが、飛行機はエンジンならエンジン専門の製造所、というように分業がされており、日立航空機では戦闘機のエンジン製造を担当しました。もちろん、戦争末期には何度も空襲のターゲットにされ、なにもなくておだやかだった大和村(現東大和市)は立川、八王子とともに多摩地区での激しい空襲を受けることとなりました。 つづく

投稿: 縁有外史 | 2009年9月30日 (水) 06時07分

●上水線のなりたち(つづき)
 東京瓦斯電が日立航空機となったのは1939年。このあとしばらくは農村と武蔵野の原っぱの中に孤立したような存在でしたが、重い金属を扱う工場だけに、さぞ不便だったと思います。
 そして1941年の開戦。以後、軍需工場として生産能力を高めるとともに、工場は拡大、従業員も各地から集まり、大和村南部は社宅や寮が次々と建ち、活況を呈するようになりました。が、依然として小さなバスがたまに通る程度で交通手段はほとんどない陸の孤島のような所でした。

 明けて1942年、戦闘機の増産にともない、さらに工場は拡大生産に入ることになりました。そして、ここで初めて鉄道による資材や製品の輸送を行うことになりました。
 言い出したのは陸軍省。
 ウィキペディアその他の詳しい資料のほとんどが「陸軍」としていますが、陸軍という言葉は広義には陸軍全体を指し、狭義には部隊そのものを指しますが、前者だと漠然としているし、後者は、いくら当時軍部の力が強くなったとはいえ、実働部隊が鉄道を敷設せよといった命令を出すことはありませんし、筋違いです。正しくは軍を統括する陸軍省。ここが命令を出しました。つまり国策です。

 さて、国策会社とはいえ、日立航空機は民間会社であり、鉄道による輸送なぞなんのノウハウも持っていません。また、地図を見ていただくと分かるように、玉川上水の駅がある所は西武線の小川のほか、中央線の立川、そして今は西武の駅でもある拝島の3駅いずれともほぼ等間隔の所に立地しています。拝島だけ少し遠いですが。
 もっとも便利かつ輸送体制が整っている点では立川が最適だし、拝島がこれに次ぎます。しかし、陸軍省はただ輸送用の鉄道を作れと命じただけで、具体的なことは工場に丸投げしたのに、決定したのは小川と工場を結ぶ路線、というものでした。 つづく

投稿: 縁有外史 | 2009年9月30日 (水) 18時39分

縁有外史さん、こんばんは。

工場の専用線ということならば、大幹線の中央線に接続した方が良いわけですが、国鉄にそこまで便宜は図ってもらえなかった、ということでしょうか?

投稿: 鈴木やす | 2009年9月30日 (水) 22時15分

鈴木さんへ
 そういえば、井手氏は日本相撲協会の横綱審議会の委員もしていますね。いろいろ要職(?)に就いている人には手が出せないということもあるかも。

●上水線のなりたち(つづき)
 西武鉄道の小川駅が専用線の接続点に選ばれた経緯は明確ではありませんが、なにしろ当時の西武といえばかの堤康次郎が猛威を奮っていた時期であり、戦時中でも西武沿線のみならずあちこちに土地を買いあさっていましたから、これに目をつけても不思議ではありません。
 結局、西武と日立との間で専用線建設の協定が1942年の10月1日、まさに67年前の今日、締結されました。
 手元に「協定書」の写しがありますが、これを要約すると、
 ・鉄道建設に必要な資材および経費は日立が持つ
 ・鉄道の運行管理は西武が行う
となっています。
 今の第三セクター方式に似ていますが、財政面と運行面を2社が共同し、それぞれ得意とする部分を受け持つ、というわけです。

 以上により、小川-立川工場間の貨物専用鉄道が誕生しました。ちなみに、玉川上水駅は旅客駅として発足したのは戦後で、最初から玉川上水駅と称しましたが、その淵源はというと、この「立川工場」駅ということになります。 つづく

投稿: 縁有外史 | 2009年10月 1日 (木) 05時59分

つづきです。
 ここで問題になるのが日興工業。ほとんどの上水線(拝島線)の説明は日興工業の専用線を元祖としていますが、この会社は再三の爆撃(特に激しかったのは1945年2月17日および4月24日)により再起不能となったまま終戦を迎えた日立航空機を整理すべく作られたもの。つまり、「日興工業専用線」は戦後のもので、終戦までは「日立航空機専用線(西武鉄道委託)」というのが正しいものとなります。

 さて、貨物専用線の管理者が日興工業に移ったとはいえ、もはや工場は無く、輸送する資材もないので、日興工業時代のこの路線はほとんど休眠状態だったと思われます。この間の明確な記録がとぼしいために断言はできませんが。
 ただ、工場は無くなったものの、各地から集まった従業員(最盛時1万3千人)の多くが大和村に定住して新たな街が形成され出したことから、この貨物線でぜひ旅客輸送も行ってほしい、という要望が起こっても当然。
 そこで、1949年5月31日に日興工業から改めて西武鉄道へ譲渡されるとともに、「専用鉄道」から「地方鉄道」へと変更することを許可する通達が運輸大臣から出されました。この写しも手元にあります。
 なお、ほとんどの人は「4月30日に譲渡」としていますが、この日は申請が出された日であり、正しくは「5月31日」です。

 さて、これでめでたく西武上水線が誕生したわけですが、事は単純ではありません。このあとまだ波乱があり、さらに話は前後しますが、日興工業から西武へ譲渡するように仕向けた事などいろいろあります。長くなりますが、これだけ詳しく説明しているものが見当たらないようですし、ついでだから拝島へ全通するまで説明したいと思います。 つづく

投稿: 縁有外史 | 2009年10月 1日 (木) 18時39分

縁有外史さん、こんばんは。

井手氏はまだ、日本相撲協会の横綱審議委員会にいたのですか。先日は、近寄りがたいおばさんが、朝青龍のガッツポーズに苦言を呈していましたが、同僚を追い出すほうを先にしてもらいたいものです。
# あのおばさんのドラマが人気があるのは、
# こういう鈍感さが原因なのかもしれませんが。

「上水線のなりたち」も興味深いです。続きをお待ちしております。


投稿: 鈴木やす | 2009年10月 1日 (木) 22時40分

●上水線の成り立ち(つづき)
 1949年をさかのぼること2年前の1947年、爆撃により壊滅して放置されていた日立航空機の工場の土地を、実は西武鉄道が購入していました。堤氏は西東京および埼玉県のめぼしい土地を手当たり次第購入しましたが、今の拝島線の沿線もあちこち我が物にしました。当時は拝島線の構想などなく、ただ安く買えたことから都下の土地を西武のものにしたようです。
 日立の工場跡地が西武のものとなったことにより、もはや日興工業の存在する意味もありません。が、購入した1947年当時には西武において跡地をどうこうするといった具体的な計画はまだなかったことから、ひきつづき休眠状態の専用線の維持管理は日興工業としておき、そして1949年になり、要望その他の社会の動きにより、旅客線として使えると判断、国に申請を出して受理されました。

 要望その他、と言いましたが、実は西武は跡地を購入跡、すぐにその一部を宗教法人の立正佼成会に転売、佼成会は購入した土地を教団の墓地としました。これは現在もあり、玉川上水の駅の北西に広大な霊園が見られます。
 立正佼成会では以前から教団の墓地とする土地を探しており、第一候補だったひばりヶ丘は当時すでに地価がとても高く、第二候補の日野の高幡不動は造成に多額の資金が必要で、ともに断念、西武が購入した跡地の一部を分けてもらうことで決着しました。
 これにより、立川工場駅は周辺住民のほか、墓参客も見込めることとなり、地方鉄道への昇格を決めたわけです。いわば、上水線は京急大師線、東武大師線のような宗教的性格もあったことになります。 つづく

投稿: 縁有外史 | 2009年10月 2日 (金) 05時19分

●上水線の成り立ち(つづき)
 上水線が拝島線となるまで、さらに紆余曲折がありますが、ここでちょっとひと息。
 手元に交通公社の時刻表1950年10月号があり、この号に上水線開業時の時刻が載っているので、以下に紹介しておきます。

25.5.15開業(西武鉄道上水線)
小川・青梅橋・玉川上水間(非)(気動車)

小川-玉川上水 4.6㌔ 5円 所要12分
小川発 604. 649. 734. 834. 934. 1049. 1234
    1414. 1534. 1719. 1749. 1834. 1934. 2104
玉川上水発 626. 711. 756. 856. 1012. 1156
     1336. 1456. 1703. 1733. 1818. 1856
    2026. 2156

なお、この当時は小川-小平間はまだつながっておらず、小平-萩山間は多摩湖線の支線扱いとなっており、多摩湖線は萩山で分断されず全線(国分寺-狭山公園前)が通し運転されていました。小平はもともと旧西武の小平、多摩湖鉄道の本小平で別々だったり、萩山も駅の位置が3回変わったりと狭い範囲にもかかわらず複雑な変遷をたどっていて、これまた本や雑誌によって記述やデータがまちまち。ただ、これについては私もまだ若干調べきれていない部分があるので、解明できたらここでご紹介します。

投稿: 縁有外史 | 2009年10月 2日 (金) 18時20分

縁有外史さん、こんばんは。

拝島線の生い立ちに立正佼成会が関わっていたとは意外でした。この教団だったと思いますが、杉並の環状八号線沿いが一大"聖地"になっていたと思います。非合理なだけに、宗教は侮れませんね。

萩山・小平付近の移り変わりについては、楽しみにしております。

投稿: 鈴木やす | 2009年10月 4日 (日) 21時33分

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