09年10月31日の西武池袋線で二題
2009年10月31日(土)の稲荷山公園駅を通過した1104レ(飯能 7時43分発・快速急行 池袋ゆき)の(<-飯能)4021F+4013Fです。
唯一の副都心線対応工事が未実施の6000系となってしまった6113Fが、本日は地上線の優等列車運用に入っていました。写真は3108レ(飯能 16時58分・快速 池袋ゆき)です。
冒頭の写真を見ると、戦闘機や潜水艦・戦車を所持し、兵隊さんも沢山いるのに政府から戦力・武力と認めてもらえない(憲法9条)組織は、3日後の興業(航空自衛隊入間基地の「入間航空祭」)に備えてでしょう、すでに陣地にテントを張っていることが分かります。
一晩で興業の準備をできるくらいになれば、戦力・武力として政府に認めてもらえるでしょうか? ちなみに西武鉄道の方はまだ、臨時改札口の設置準備は始めていませんでした。さすがに、違います、怖ろしや怖ろしや、...。
面白くもない与太話はともかく、そろそろ憲法違反は止めたいものです。
読み進んでいる加藤 陽子著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』に、戦争放棄を戦前に唱えた軍人・水野 廣徳が紹介されていました。
人殺しと破壊活動の練習を同胞にやらせておいて憲法違反にしておくのも、人倫に反します。
早く廃止してあげたいものです。
なお11月3日の臨時ダイヤが武蔵藤沢駅の時刻表に貼られていました。
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コメント
横田に厚木に入間、その他日米とりまぜて「基地」が多すぎるといつも思っています。友好ムードを現出すべく各基地主催の行事があり、航空機ファンやミリタリーファンなどにはいい機会でしょうが。
鈴木さんより多摩鉄道は甲武鉄道の国有化後だから甲武鉄道のもう一つの支線というのは誤り、というご指摘を頂きました。まさにその通りで、西武の成り立ちは複雑で混乱しているのが多い、と言っている当人まで混乱しているのだから恥じ入るばかり。前回のこの部分は表現において正しくありませんので、訂正します。なお、砂利輸送のために敷設された多摩鉄道が中央線の支線的性格であったこと(改修前の駅構内の配線を見れば一目瞭然)、川越鉄道(国分寺線)と関係が深かったことは説明のとおりで、車両の行き来などについては別に述べます。
さて、本題。沿革(歴史)ばかりが続いてますが、そろそろあまり取り上げられていない事について触れたいと思います。
1918年(大正7)、当時の東京市が川越鉄道に対し、貯水池建設用のための臨時駅を東村山-小川間の適当な位置に設けるよう要請しました。要請というと柔らかい感じですが、当時の東京市は「帝都」であり、法的拘束力はないものの、従うのが当然という認識でした。
また、川越鉄道にとっても貨物輸送が増えることから良い儲け話。断る理由はありません。ただちに、現在の東京街道(江戸街道とも)と交差する付近、以前、西武中央病院というのがありましたが、その所に160メートルの有効長を持つ小さな臨時貨物駅が作られました。意外と小さい感じですが、資材運搬用が目的の専用線だったため、そんなに長編成の貨車ではなかったのでこれで充分でした。
なお、名前ですが、これについては記録に確たるものがなく、ただ臨時貨物駅といった扱いですが、もしこの名前を発見された方がいれば、大きな功績となります。
ここでまた混乱させられたり、不思議に思ってしまうのですが、工事用としては専用線が東村山から貯水池まで敷設され、貨車の授受が東村山で始まっていたのに、なぜさらに臨時駅を要請したか、です。このあたりの事情は今確認されている書類、断片的な記録からは読み取れません。臨時駅からトラックによって貯水池まで資材が運搬されたこと、この臨時駅は5年間の限定として認可されたことだけがわかっています。
小川駅に近いので、通常なら小川駅構内扱いにしてもおかしくはないのですが、独立した駅として認可、運営されたのは興味あります。
投稿: 縁有外史 | 2009年11月 1日 (日) 05時55分
縁有外史さん、こんばんは。
多摩鉄道の件はよろしくお願いします。
ところで東京街道は、ウィキペディアを見ると小平駅から東側に伸びる道路です。
西武中央病院は現在も、小川~東村山間の西側沿線の、多摩湖線の南側に存在していますので(ネット情報によると)、その近辺に臨時駅があったということで、よろしいでしょうか?
臨時駅の周辺は道路は便利そうなので、トラックでの輸送用かもしれませんね。
投稿: 鈴木やす | 2009年11月 1日 (日) 22時28分
鈴木さんへ
多摩鉄道、鋭意準備中です。期待しないでお待ち下さい(笑)
東京街道はウィキペディアが間違いです。通称、江戸街道ともいいますが、わが東大和市内の新青梅街道ど合流する地点までを言い、「東京街道団地」という大きな都営団地もあります(高層に建て替え中)。もし、小平より向こうとなってしまうと、この団地の名前を東京都が詐称したことになり、穏やかならざる事態となってしまいます(そんなおおげさなものじゃないでしょうが)。
ウィキペディアに書き込みをした人が知らなかったのでしょうし、あえてその方に助け舟を出すとしたら、この街道はこの近辺にある青梅、新青梅、府中、甲州の各街道にくらべると認知度が低く、名前を知らない人もいますし、(江戸街道)と私が特に記したように、この名前も使われたりしています。
そういえば、かつて私もなにかの本で東京街道の区間がずいぶんと東の位置として説明しているのを見たことがあるのを思い出しました。そのような資料を元にしたのかもしれません。
病院の件、今もありましたか。これは失礼しました。位置はそこでよろしいです。
投稿: 縁有外史 | 2009年11月 2日 (月) 04時58分
明治44年、経済新聞社から出た「鉄道業の現状」という本があります。この第5項に川越鉄道が出ていますが、その冒頭の部分がとても興味深いので、原文は旧漢字の上に文語文なのを現代語に訳して紹介します。
都心と郊外を結ぶ路線が次々と出来始めたことに対する脅威・危機感や、驚くべき新線の計画などがあります。長文なので分載とします。
(五)川越鉄道
本社 埼玉県入間郡川越町大字川越
設立認可二十五年六月
開業二十七年十二月
専務取締役 岩田作兵衛
(以下の重役名省略)
現在の営業路線は18マイル36チェーン、官鉄の旧甲武鉄道国分寺より分岐して北に向かい、所沢を経て川越に達する。
沿線はこれといった遊園地や旅客を集める施設はないが、東京との旅客・貨物はかなり多く、最近4年間は株主に1割の高配当を続け、民業鉄道として、支線鉄道としてはとても成績が良い鉄道といえる。
しかし、最近川越を起点として官鉄大宮に達する川越電鉄(軌道線)の開業は、川越一帯より東京へ行き来する旅客にとって時間の短縮や運賃の低下となったことから、収入の減少をもたらすこととなった。
この対抗策として、東京-川越間直通運賃の半減を試みるなど、従来の方針の転換をすることとなった。
つづく
投稿: 縁有外史 | 2009年11月 2日 (月) 22時17分
縁有外史さん、こんばんは。
東京街道については了解です。
1マイルが1.6kmで、1チェーンが20mですから「18マイル36チェーン」は29.6kmほどですね。
投稿: 鈴木やす | 2009年11月 3日 (火) 21時52分