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2009年10月 8日 (木)

09年10月8日、西武線などの見ただけの一部

台風18号が日本列島に上陸した2009年10月8日(木)の西武線を中心とした見ただけ、の一部です。


高麗以西が運休で池袋線の朝の特急はすべてむさし号


始発から、山間部を走る高麗~西武秩父間は運休でしたが、池袋線の特急列車は正常運転でした。西武秩父 5時50分発のちちぶ8号(8レ)は、西武秩父 7時50分着のちちぶ1号(1レ)は、所沢駅を定刻に着発していました。

ちちぶ1号は「むさし」号表示でした。ちちぶ8号は確認し忘れました。



2009年10月8日 6時25分頃、所沢、4・5番ホームの特急券自動販売機。「ちちぶ1号 飯能まで」


2009年10月8日 6時25分頃、所沢、4・5番ホームの特急券自動販売機。「ちちぶ1号 飯能まで」


新宿線から池袋線へ2541F(?)が入りました


所沢駅2番ホームへ20時59分に到着した2541F(?)の新宿線 上り回送列車が、21時ころに池袋線下り方へ入って行きました。

2541Fは、いつもは新宿線で走っているN2000系4両固定編成です。

同駅2番ホームにはその少し前、20時50分にも(<-西武新宿)2409F+2031Fの回送列車が停車していました。2番ホームの回送列車はほとんど通過なので池袋線へ入るのかと緊張して見ていたら、新宿線上り方へ発車して行きました。

2541Fの上り回送列車が2番線に到着しても、またか、と油断していたら、池袋線へ進入でした。新宿線の10000系が池袋線へ応援に入るときもこのスジが多いです。

なお、ここ数日、日中の労働でやや目を酷使しており、車両番号をもしかすると見誤っているかもしれません。念のため。


朝のJR山手線運休でメトロ副都心線雑司が谷駅が盛況


台風の強風でJR山手線の運転が3時間ほど止まったようです。8時半すぎのメトロ副都心線・雑司が谷駅は、普段はほとんど見かけない乗車の人が多く改札口を入っていました。

目白駅から歩いて(10分ほど?)、副都心線へ逃れてきた方々だったようです。

構内放送で、「どこどこの駅では警官が出動しています、ご注意ください」と言っていました。当然、それほど込んでいますよ、という注意喚起のアナウンスです。

副都心線のダイヤも乱れていました。東上線から入ってくる、池袋駅8時30分発の通勤急行 渋谷ゆきがありませんでした。所定で8時26分発の各停 渋谷ゆきは8時29分発でした。

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コメント

 台風にともなう動きの記録もまた貴重です。敬意を表します。今回は西武に関してはあまり影響がなかったようですが。

●雑記 「堤氏の決意と埋もれた記録」
 堤王国の総帥、堤康次郎は晩年、日経新聞の今も続いている長期のコラム「私の履歴書」で次のような決意を改めて述べています。

「村山貯水池、私はここを一大観光地とする計画でこの鉄道(=多摩湖鉄道。現多摩湖線)を始めたのである」

 このひとこと、この決意は堤康次郎と村山貯水池(多摩湖)との関係の深さを示していますが、貯水池の建設にあたっても堤の西武とは関係があります。
 ということで、昨今は廃線ブームとともに、正縮尺の地図の出版も盛んで、消えた専用線から名もなき引き込み線の類まで記載されてとてもいい資料となっています。ところが、山奥の森林鉄道の支線の支線までちゃんと描かれていながら、なぜか多摩湖近辺にあった路線や臨時駅などはほとんどすべて欠落しています。堤氏はあの世で嘆いていることと思いますが、上水線の成り立ちに続いては、多摩湖近辺に存在した路線や駅を紹介してゆきます。
 過去に興味も関心もない方にはどうでもよい古臭い話ですが、西武の今があるのは、過去の複雑な変遷と蓄積があってのこと。知っておいても損ではないですし、いかに西武は貨物と関係が深かったかを知ることにより、まもなく西武から機関車が全滅(モーターカー類は除く)しようとしていることがどれほど重大な転機であるかがよくわかるはずです。電気機関車を運転できる職員もごくわずかとなったとか。これでは、余剰となったJRのEF64ないしはEF65を購入してE31の代替機にして、今後の新車の新秋津からの牽引や工臨用にすればなあ、などと思い描いても、機関士がいないのではどうにもなりません。電車を牽引用とするという話を聞いて、唖然としたことでした。 つづく

投稿: 縁有外史 | 2009年10月 9日 (金) 18時26分

縁有外史さん、こんばんは。

多摩湖周辺の路線の移り変わりは複雑なようですね。よほど大きな縮尺の地図でないと正確に描けないことが、欠落の原因なんでしょうか?

E31形電機はしばらく残るようなお話ですが、甲種車輌輸送にしか使われない電気機関車は電気機関車と言えるのか、と思ってしまいます。

地球温暖化対策が全世界的課題となった今日、ここは是非 貨物列車の復活を、と夢想しております。ヤギ(武蔵横手駅)で誤魔化さないでください、と西武鉄道にはお願いしたいところです。

投稿: 鈴木やす | 2009年10月10日 (土) 20時21分

 新宿線がまだ高田馬場までだった時は、西武新宿方に数百メートルほど折り返し線兼留置線がありました。のちにこれをそのまま延長して西武新宿開業となったわけですが、本当は国鉄新宿駅まで到達する予定で、西武新宿はあくまで仮駅として開業したものの、表に表われないようなことまで含めていろいろあった結果、とうとう東口に池袋駅のように駅ビルともども西武のターミナルが作られることは夢に終わってしまいました。
 新宿線に地下新線を作り、特急や急行専用とするという案が出た時(これは新聞報道の勇み足でした)、再び新宿まで地下で到達させて悲願を成就させよう、ということも話し合われたようですが、なにしろもう新宿は地下も鉄道だらけだし、地下道やライフラインもかなり深くまで縦横に通っていることから、距離的にはわずかなのにもかかわらず、またもや絵空事で終わってしまいました。乗客減や建設費の高騰などのマイナス要因もいろいろ加わり、地下新線どころではないというわけです。
 最近になって、また高田馬場で東西線と接続させようという動きが出ているようですが、もともとはそうするはずでした。しかし、これについてもいろいろあって(ありすぎですね/苦笑)落合から中野で中央線とつなぐという変なルートにしてしまった。中央線はすでにいわゆる緩行線(総武線乗り入れ)によって複々線化が早くから開始されていたわけですから、東西線まで加える必要はなかったし、当初の計画でも中央線に地下鉄をつなぐことは予定されていませんでした。
 この、当初の計画=高速鉄道(地下鉄)網の計画は1950年代、つまり丸ノ内線の建設の頃に12号線ぐらいまでの青写真ができあがっており、1960年代の高度経済成長とともに次々と具体化され、日比谷線、東西線が着工されました。東西線の開業時の車両なぞはメーカーからの甲種回送の時、なんとSLが牽引したのですから、時代を感じさせます。
 この当初の計画では、有楽町線は西武池袋線と、東武東上線は別の路線(まだ未定でした)と接続する、となっていました。ところが、いざフタを開けると、有楽町線は両方と変則的な乗り入れとなり、しかも東上線のほうが主で、池袋線はわざわざ西武有楽町線という新線まで作って割り込ませてもらうような感じになりました。
 高速鉄道網の初期の計画についてもなかなかおもしろいので、これも追って詳述します。

投稿: 縁有外史 | 2009年10月10日 (土) 21時44分

多摩湖線の話
 西武鉄道の歴史は複雑な上に、車両の歴史にいたってはおそらく私鉄一といってもよいほど複雑多岐にわたっており、しかも監督官庁に提出した書類と実際とがまるで違うほど改造されていた例も戦前から戦後しばらくの間続き、西武に関してとても詳しかった大先達たちが存命だった頃にまとめられた30年以上前の記録(ピクトリアル誌で数回にわたり詳細が掲載されました)でさえ、もはや確かめようがない、とさじを投げてしまわれた部分が多いほど、調べれば調べるほどいろいろ出てくる一方、わからなくなることもまた出てきます。それだけに興味が尽きないわけですが、今の西武の源流はどの路線かというと、これすらいろんな説が可能なほど複雑ですが、多摩湖線、ということになるでしょう。
 歴史の古さでは川越鉄道に端を発する国分寺線と新宿線の埼玉県の部分、現在の位置(中核をなす)では池袋線、などとなるわけですが、複数の路線を財力と政治力で束ねた堤一族が創設した、という点では貯水池の観光および学園町の形成のために自分で直接建設した多摩湖鉄道、ということになります。しかも、堤氏はやがて武蔵野鉄道(=池袋線)を手中におさめ、武蔵野鉄道多摩湖線としたことを見れば、納得される方もおられるでしょう。
 西武の歴史についてはたくさんの本やサイトがそれぞれの切り口でまとめられており、もはやここで再説する必要もありません。ただ、中には安易にそのへんの解説をうのみにして引用、転載したために、間違いではないにしてもあやふやなことをそのまま広めてしまうこともあるので、やはり自分でいろいろ調べて、納得できる形にしたほうがよいわけです。前にも言いましたが、西武自身が完全な社史を編纂してこなかったことにも責任があり、ファンや研究者たちが独自にまとめざるを得ません。

 と、前置きはここまでにして、今は新宿線系に属している多摩湖線がかつては武蔵野鉄道のものだったこと、多摩湖鉄道を足がかりとして(一方で箱根土地という会社も創設)、やがて武蔵野鉄道、旧西武鉄道および多摩鉄道(多摩川線)すべてを一つにするに至ったその発端であったということを押さえて、多摩湖線について見てゆくことにします。(と言いつつ、今回はここまで)

投稿: 縁有外史 | 2009年10月11日 (日) 06時28分

多摩湖線の話[2]
 多摩湖線の歴史についてはウィキペディアそのほかで概略がまとめられており、ここではそれに譲ります。ただ、いちいちそれらを見るのが面倒、という方のために開業についてまとめておくと、まず1928年4月に国分寺-萩山間が開業、続いて11月に萩山-本小平間、1930年1月に萩山-村山貯水池間が開業し、ひとまず全体が完成しました。
 ここで話がごちゃごちゃするのですが、村山貯水池については良い収入源となると目をつけたのはほかにもあり、武蔵野鉄道が今の狭山線を、旧西武鉄道(川越鉄道)が東村山から今の西武園線をそれぞれ敷設しました(当時の旧名についてはそれぞれの成り立ちで詳しく述べます)。つまり、昭和の初期においては、多摩湖線、狭山線、西武園線はまったく別の会社の路線だったわけで、しかも西武園線はなんと箱根ヶ崎まで敷設すべく、免許を取得していました。それが実現しなかったから今のような1区間1駅の支線となったわけで、東武大師線が本当は池袋の北を通り、東武東上線につなぐ計画が夢に終わったのと同じです。

 これはあまり書いている本やサイトがないようですが、多摩湖線は正確に言うと、箱根土地株式会社が鉄道院に申請して免許の交付を受けて建設したもの。1927年11月のことです。ついで翌年1月に多摩湖鉄道株式会社が発足、工事は土地が平坦でやりやすかったことから4月には国分寺から萩山までが開業しました。免許交付からわずか半年にも満たない早さです。(資料によっては9月開業となっているものがありますが、4月です) つづく

投稿: 縁有外史 | 2009年10月12日 (月) 05時35分

下記コメントが付いていたので削除しました。

*** 引用ここから ****
亀 頭寸止めくらいまくってカウパー出まくりwwwww
イ ク瞬間「ぁぁぁああああああ!!!!!」って大声出してしまった(^^;
やっぱ経験無し男はお姉様が丁寧にエスコートしてくれまつねwwwwww
てか今回の事で寸止めプ レ イにハマってしまったww またお願いしようwww

http://BBBB.DSDDSDSDS.XXXX/PPPABCD/

投稿: カウパー多めwwww | 2009年10月11日 (日) 19時29分
*** 引用ここから ****

投稿: 鈴木やす | 2009年10月12日 (月) 17時22分

縁有外史さん、こんばんは。

数年前の鉄道ピクトリアルに、新宿線と東西線の乗り入れ計画の話題がありましたが、その後の音沙汰はないようです。

阪神ジェットカーのような高加減速の各停専用車を西武新宿~上石神井間に集中投入すると面白いような気もしますが、このまま、ローカル線的通勤幹線を続けるのも、癒しが求められる今日、宜しいのかもしれません。満員電車に詰め込まれている皆様には怒られてしまいますが、...。

投稿: 鈴木やす | 2009年10月13日 (火) 22時27分

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