西武新宿線の4ドア車10連運用を285F+1309Fが代走
2009年10月7日(水)朝から(<-西武新宿)285F+1309Fが10両固定編成の代走に入ったようです。
10月5日(月)の朝は4806レ、6日(火)は2604レと通常のN101系10連運用に入っていた285F+1309Fですが、7日(水)は4603レや4251レ、8日(木)は4624レ、9日(金)は5607レ・2752レ・1601レ・3309レと、通常ならば10両固定編成の列車に入っていました。
三連休も代走を続けた模様で、10日(土)は3315レ(8連の番号は未確認)、11日(日)は2812レ、12日(月・体育の日)は2313レ・3306レ・4625レなどで見ました。
2009年10月12日、東伏見、4625レの285F+1309F。
この写真は縮小するのを忘れたためクリックすると巨大サイズとなります。思いの外 良く撮れていたので自慢したくて原寸としたわけではありません。念のため。「思いの外 良く撮れた」は事実ではありますが。
なお12日は、14時55分ころでしょうか、南大塚~本川越間で人身事故があり狭山市~本川越間の運転が一時 見合わせとなりました。4625レ(狭山市発 15時1分)は狭山市で折り返し2660レ(狭山市 15時15分発)となった模様で、2657レ乗車中の15時33分ころに久米川~東村山間ですれちがった急行 西武新宿ゆきがN101系2連+1309Fでした。
15時35分頃には運転再開したと車内放送が入りました。
また平日は新宿線に2本ある通常のN101系10連運用の8連部分に穴が出来ますが、(<-西武新宿)1253F+1251Fがカバーしています。7日(水)から9日(金)まで1253F+1251F+281FがN101系10連運用に入っていました。
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コメント
多摩湖線の話[5]
今まではさほど目新しい話題もなくてご退屈様のことと思いますが、これからあまり聞き慣れない話も出てきますので。
国分寺から萩山、そして本小平まで開業したのち、引き続き村山貯水池までの路線の建設を続けていますが、この間、多摩湖鉄道は鉄道院から鉄道省に変わったその鉄道省に対し、東村山から山口村宅部までの鉄道敷設の免許を申請、交付されました(1929年7月)。ルートは今の西武園線および山口線(レオライナー)とほぼ同じで、終点はもう少し先、山口貯水池のすぐそばでした。
ここで話が混乱してくるのですが、このすぐあと、旧西武鉄道が支線として東村山-村山貯水池前間を開業させてしまいました。まったく同じルート、しかもこの時はまだ旧西武と多摩湖鉄道は合併しておらず、ライバルでした。
そればかりではありません。旧西武は村山貯水池前の先として、貯水池建設の資材輸送のために敷設された軽便鉄道(正式名称はなく、俗に山口羽村軽便鉄道とか山口軽便鉄道と称しています)を買い受けて、今の瑞穂町の箱根ヶ崎までの免許も受けました。もしこれが実現していれば、西武園線は多摩湖と狭山湖の間を通り、鉄道が無い市として悲惨な状態の武蔵村山市の北を通って八高線の箱根ヶ崎に達するという面白い、そして拝島線と並行する大きな支線となったはずです。ところが、免許を受けたにもかかわらず、その直後に八高線が開業し(1931年12月=南の区間)、これだけが理由ではないようですが、八高線が完成して間もなく開業ということで旧西武の免許は失効となり(1931年10月)、路線の90%にもなる村山貯水池前-宅部-箱根ヶ崎の区間は未成線となってしまいました。未成線についても最近よく取り上げられますが、この西武の未成線についてはほとんど知られていないためか記載されていないものばかりで、西武園線という盲腸線が最初から西武園のために敷かれたように誤解される結果となっています。 つづく
投稿: 縁有外史 | 2009年10月14日 (水) 06時04分
多摩湖線の話[6]
村山貯水池(多摩湖)建設のために資材運搬用として敷かれた貨物線(軽便鉄道)は2つあります。このうち、前回紹介した山口羽村軽便鉄道(通称)は廃線跡の一部がサイクリングロードなどになっていることもあり、よく紹介されますが、もう一つ、東村山からのほうはほとんど歴史のかなたに埋没してしまい、紹介どころか地図上の記載すらない状態です。最近では、といってもだいぶ古いですが、「トトロの森の大軽便鉄道」(名取紀之・岡本憲之著 ネコ・パブリッシング 1993年9月「レイルマガジン増刊号」)に少し出ているのを確認した程度です。
この軽便鉄道についても追って紹介するつもりですが、西武や東京市(当時)、そのほかいろいろな組織や会社がからみあって実に複雑で、しかも軽便といいながら早稲田-村山間という壮大なもの。それだけに未成線とか消えた軽便線としての記載がないのはおかしな話ですが、この大正時代に計画され(東京市がみずから運営に乗りていた!)、東村山-村山貯水池間は実際に開業までしたこの路線こそ、やがて旧西武が継承し、村山線=新宿線となったものです。
話を進めれば進めるほどごちゃごちゃしてきますが、西武とはそういう成り立ちと変遷を経た会社なのです。(年表を見ると、電灯会社などの名前も出ていますが、これは路線そのものには直接関係がないのでこれ以上の混乱を避けるために割愛します)
以上、多摩湖線の成り立ちをお話しました。貯水池観光と小平の学園都市のために堤氏の箱根土地がはじめて鉄道経営に乗り出した記念すべき路線であること、とはいえ、規格は軽便で小さなものだったこと、そして、貯水池建設用の資材運搬にも一役買ったことをまず押さえておいて下さい。ただし、資材運搬はこのほか川越鉄道(国分寺線)の成り立ちでもまた登場します。
投稿: 縁有外史 | 2009年10月15日 (木) 18時43分
縁有外史さん、こんばんは。
村山貯水池は、小学校の遠足で行ったような気がしないでもありませんが、観光地としての認識は現在 持っておりません。西武は最近、細長いパンフレットを作成して紹介していましたが、「池袋モンパルナス」と扱いは同じ。でも当時は、何やらすごい状況だったようですね。
山口羽村軽便鉄道は青梅線の羽村側から村山貯水池へ向かった工事軌道ですね。貯水池建設用にもう一つ、東村山側からも工事軌道あり、こちらは早稲田まで作る計画だったとは、知りませんでした。
お話では、西武新宿線の高田馬場~東村山間はこの工事用の軽便軌道の計画が基とのことですが、軽便鉄道と地方鉄道(西武村山線(新宿線))とでは軌道の規格がまったく異なるでしょうし、法手続き上も別個のものと思います。「旧西武が継承し、村山線=新宿線となった」とは素直に受け入れられないところです。もう少し、詳しいお話をご紹介いただければと思います。
投稿: 鈴木やす | 2009年10月17日 (土) 22時43分
鈴木さんへ
ご質問ありがとうございます。補遺の補遺です。
まず、貯水池建設に2つの軽便鉄道が敷かれた理由から付け加えさせていただくと、羽村からのは砂利・砂を運搬するもので(貯水池の堰堤や取水塔、送水口などを作るため)、この軌道は多摩川から砂利砂を採取すべく敷かれた軌道とつながっていた模様です。ただ、多摩川からの軌道の詳細は不明で、戦前には多数存在していたものの、記録は断片的なために、今はこれ以上のことは述べられません。
もう一方の東村山からのやつですが、こちらはセメントや木材、その他建設用資材および作業員輸送のため敷かれました。で、「軽便」という語をわが説明で使いましたが、これは当時も公式の文書から新聞記事、私的な記録までみなそう呼んでいたからです。が、これがちょっと誤解のもととなるわけで、免許が交付されたのはとりあえず資材運搬用の専用線として、そしてその輸送形態は機関車がトロッコ(無蓋車)を牽いているといったことで、みな専門的な意味ではない、一般的な感覚として「軽便」という語を使っていたようです。
そこで、これはさきの説明中に入れるべきでしたが、羽村からのは軌間が609ミリの純然たる軽便規格なのに対し、東村山からのは、こちらについては川越鉄道(国分寺線)のお話の中で詳述することにしていましたが、国鉄の貨車が川越鉄道を経由してそのまま乗り入れられるように1067ミリとし、川越鉄道と直接つながっていました。それなら軽便じゃないじゃないか、と思われる方もいると思いますが、定義とは別に一般的に小さな鉄道、マッチ箱のような車両も軽便といい、特に戦前には公的な文書でさえまま乱用されていたほどで、当時この路線を「軽便」と言っていたことから、現在でもこの呼称で言い慣わしているわけです。
さらに、この路線は資材運搬とともに、工事完成後には観光など客輸送線として転用することも同時に明記していたことから、地方鉄道として免許の交付を受けました。
こんなわけで、東村山-早稲田間は勇み足的な計画で一度は消えてしまったものの、免許そのものは有効のまま貨車輸送を実質的に担当していた川越鉄道が継承、やがて西武と合併して、新たに村山線として夢を果たしたと、こういうわけです。
図や「軽便」と俗称された写真等がここではお示しできず、すべて文章となるためなかなか意を尽くせませんが、さらに疑問等もあるかと思いますが、貯水池建設については川越鉄道で貨物のための臨時駅の設置や、これも正縮尺地図モノなどに載っていませんが、青梅-狭山湖間の国鉄貨車輸送とそのための臨時の路線といったものもあり、ひいては「多摩湖」と「村山貯水池」どちらが正しい名前?についても明らかにしたいので、あとはそちらをご覧いただいた上で、ということに願います。
とにかく貯水池周辺のことになると信じられないほどごちゃごちゃといろいろあり、しかも早稲田だの箱根ヶ崎だのといった壮大な計画、さらには戦後突如出現し、実現直前で疑獄事件により空中分解した吉祥寺(当初は三鷹)-秩父間の「武州鉄道」や(貯水池を有する東大和市内には、この鉄道会社がすでに買いあさっていた土地が随所にありましたが、会社がつぶれたことから、その跡地に今の市役所を移転して使っている、といったことまで話しは広がる)、都営大江戸線のいわゆる放射部分は本当は光が丘ではなく、新青梅街道ぞいに北多摩地区を貫いて青梅へと向かう、東京都でありながら都営地下鉄の恩恵を受けていないこの地区(南多摩地区は京王線乗り入れの都営新宿線がある)のものとなるはずだった、ということなど、貯水池を目指したり経由するはずだった鉄道がいろいろあります。これらについても別に述べます。
投稿: 縁有外史 | 2009年10月18日 (日) 06時29分
下記コメントを削除しました。URLは伏字にしています。
*** ここから ***
マ-ンコの締まりが良すぎるのも問題だと思わねー?w
いや俺さ、昨日の子が良すぎて連続でヤりまくったら腰痛がwwwww
とりま8 万もらった事だし、仕事休む事にしたwwwwwww
てか一歩も動けねぇしやりすぎまひたわ(^^;
http://ccc.ddddddd.eeeeee/fffffffff/
投稿: イッテーーー!!! | 2009年10月18日 (日) 12時51分
*** ここまで ***
投稿: 鈴木やす | 2009年10月18日 (日) 18時08分
縁有外史さん、こんばんは。
東村山側からの工事用の専用線は1067mm軌間だった訳ですか。これならば西武村山線(新宿線)の前身になれますね。
大江戸線のお話で、西武柳沢駅から青梅駅までの都バスを思い出しました。まだあるようです。こちらも由来がきっとあるのでしょうね。
投稿: 鈴木やす | 2009年10月18日 (日) 18時31分