« 今年も西武トレインフェスティバル2009 in 横瀬 | トップページ | 09年10月8日、西武線などの見ただけの一部 »

2009年10月 5日 (月)

西武池袋線のN101系10連、09年10月5日はちょっとイレギュラー

2009年10月5日(月)は西武池袋線の4204レ(小手指 6時11分発・準急 池袋ゆき)が(<-飯能)275F+1241F+1243Fと、久しぶりにN101系10連でした。



2009年10月5日、所沢、1243F+1241F+275の4204レ。


2009年10月5日、所沢、1243F+1241F+275の4204レ。

一方で1303Fは5208レ(小手指 6時1分発・各停 池袋ゆき)に入っていました。

夜の275F+1241F+1243Fは2259レ(池袋 18時48分発・急行 小手指ゆき)でした。通常ならば2174レ(飯能 19時12分発・急行 池袋ゆき)なのですが、こちらは6154Fでした。

2259レで小手指到着後は2252レ(小手指 19時36分発・急行 池袋ゆき)かと期待して所沢駅で待っていましたが、やって来たのは(<-飯能)2453F+2097Fでした。

20時前の小手指車両基地は暗くて、275F+1241F+1243Fは分かりませんでしたが、おそらく入庫したのでしょう。

武蔵丘出庫と思われる2159レ(池袋 19時8分発・急行 飯能ゆき)のN101系10連は、(<-飯能)271F+1301Fでした。

昨日の横瀬~西武秩父間の臨時列車の後、271Fは小手指まで戻らずに武蔵丘に入庫だったようです。

|

« 今年も西武トレインフェスティバル2009 in 横瀬 | トップページ | 09年10月8日、西武線などの見ただけの一部 »

コメント

●上水線の成り立ち
 では、先を続けましょう。
 玉川上水駅北側の広大な土地が接収されてしまい、開発と輸送量の増加が絶望的(米軍に土地を取られたことについて、周辺の住民らはもう永久に戻らないなどと悲嘆にくれたそうです)となった一方、いつから計画を始めていたのかわかりませんが、翌1953年8月15日、西武は玉川上水-拝島間の免許を取得しました。転んでもタダでは起きないと言いましょうか、この計画は正解となるわけですが、さらに翌1954年1月には上水線を1500vで電化をし、佼成霊園墓参のための臨時直通電車が高田馬場-東村山-小川-玉川上水というルートで運転開始となりました。小平-小川間は短距離ながらまだつながっておらず、しかも多摩湖線は多摩湖鉄道時代の電圧600vのままだったため、わざわざ迂回しました。多摩湖線の昇圧は1958年で、この時から直通運転が始まります。(多摩湖線ほかについては、あれもこれも話を述べると複雑でややっこしくなるので、とりあえず上水線および拝島線にしぼります)

 玉川上水から拝島の間はほとんど平坦で、人家もまばらな武蔵野の原っぱだったことから用地取得も軌道の敷設も容易でした。そのため、1963年には拝島の一つ手前の西武立川まで完成していました。(近年はこのあたりもだいぶ開けてきましたが、以前はまったくなにもなく、駅名も苦労したそうですが、国鉄の立川と接続していないばかりか、おそろしく離れていることから、知らない人がうっかり西武立川を立川と思って来てしまったと苦情が絶えなかった)
 ところが、拝島まで全線開通したのはそれから5年もあとの1968年。もちろんこれには理由があります。
 それは、ひとつは利害がからんでのため、もうひとつはこれまた米軍の存在です。 つづく

 

投稿: 縁有外史 | 2009年10月 6日 (火) 06時09分

 西武線の前面展望の動画もだいぶ充実してきたようで(出色なのは名鉄)、ここしばらくご無沙汰している池袋線を見ましたが、南長崎が江古田と錯覚するぐらいよく似ていて、当の江古田はただの相対式になりつつあって、変貌ぶりに改めて感慨深いものがあります。
 高架は駅の個性が無くなるといわれるように、車窓から見る限り、特に快速急行など優等列車で次々と通過する駅はどれも同じで、壁などの装飾などに違いを出しているとはいえ、いつも利用しているか、よほど精通している人でないと、ここはどこか、ということがまったくわかりません。私個人としては、高架駅はつまらないなあ、です。

●上水線のなりたち、そして拝島線へ
 西武立川まで軌道が完成しながら、拝島到達が5年もかかったのは、まず国鉄拝島駅構内への乗り入れ協定が難航したからでした。
 監督官庁の運輸省はすぐに免許を交付しましたが、国鉄にとっては新宿-拝島間が競合することになるため、もちろん認めたくはない。とはいえ、国鉄は拒否できる権限はありませんから、どうにかしてうまくゆかないようにしたい。同じく競合する路線といえば京王線があり、こちらは御存じのとおり、京王八王子という別の駅を作り、国鉄八王子との一体化はできませんでしたが、拝島についても、西武拝島といった駅を作らせて、国鉄とは離してしまいたかったのではないでしょうか。
 とはいえ、こんな利用客を無視したことが通るわけはありません。
 ところが、もっと深刻な問題が起きました。
 拝島駅からは横田基地へのジェット燃料輸送の専用線が分岐していますが、西武拝島線が国鉄拝島駅の横に駅を作るには、この専用線とクロスさせなければならないことが分かりました。この専用線が国鉄のものなら問題はなかったのですが、米軍の所有となっており、専用線部分の土地は「日本であって日本ではない」ために、信じられないことですが、これを解決するのに5年もかかってしまいました
 専用線として発足した上水線が、拝島線として完結する直前で専用線に泣かされたというのはなんとも皮肉なことです。
 
 以上、上水線小川-玉川上水間の成り立ちと変遷、そして拝島延長までの経緯でした。まだなお不明な部分があり、これを完璧なものと思われては困りますが、関係資料20種以上を動員し、日付や名称の食い違う部分を適宜調査して明らかにしただけに、かなり詳しいものと自負しています。
 なお、先述したように、小平-小川間もまた複雑な成り立ちと変遷を経ており、興味の尽きない区間ですが(多摩湖線の末端区間も)、こうしてコメント欄への連載をお許しいただいている以上、判明し次第寄稿しますが、しばらく時間をいただきたいと思います。

投稿: 縁有外史 | 2009年10月 7日 (水) 18時52分

縁有外史さん、こんばんは。御投稿、興味深く拝読しました。

来月上旬まで忙しく、投稿への感想が遅れることと思いますが、拝読しておりますので構わず投稿いただけると嬉しいです。

高田馬場-東村山-小川-玉川上水の直通電車とは、思いもよりませんでした。西武新宿まで開通したのが1952年3月ですから、当時は高田馬場で折り返しができたのでしょうか? 西武新宿始発で、高田馬場から客扱いだったのか、興味が沸きます。

拝島駅手前の米軍専用線はまだ現役で、ブログ「TOMOの鉄日誌」さんでもたまに紹介されています。GHQの時代から10年ほど経っていたわけではありますが、自社の線路を米軍の専用線と平面交差させようという発想自体、私のような小心者にはとても思い浮かびません。堤さんから米軍に何が届けられたのか(または何も届けられなかったのか、サツマイモはいずれにしても対象外)、こちらについても面白いお話(小説)が書けそうですね。

投稿: 鈴木やす | 2009年10月10日 (土) 20時15分

鈴木さんへ
 お言葉に甘えて駄文を連投させていただきます。ご多忙のようですし、ご感想はほんのたまにで結構ですので。
 分かり切ったことからあまり知られていないようなことまで、話題が尽きるまではお邪魔させて下さい。西武以外でもいろいろあるので、当分はネタ切れとなることはありませんが。

投稿: 縁有外史 | 2009年10月10日 (土) 21時08分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 西武池袋線のN101系10連、09年10月5日はちょっとイレギュラー:

« 今年も西武トレインフェスティバル2009 in 横瀬 | トップページ | 09年10月8日、西武線などの見ただけの一部 »