土休日の西武国分寺線にN101系4+2連などの09年10月24・25日
2009年10月24日(土)・25日(日)の西武線の話題など、です。
土休日の国分寺線に295F+1249F
土休日は2000系またはN2000系6両固定編成ばかりが多い国分寺線ですが、10月24日(土)と25日(日)は(<-国分寺)295F+1249FのN101系2+4連が入っていました。
24日の所沢駅で295F+1249Fの5708レを目撃し、気付いた次第です。24日は5709レもこの編成でした。
25日は6681レ6679レや6688レなど、日中は国分寺~東村山間の折り返し運用でした。
24日の新宿線は2093FがN101系8連運用を代走
いつもはN101系8連(たいてい301系)の5816レが、10月24日(土)は2093Fでした。N101系8連運用のもう一本には1311Fが入っていました。5337レで確認しました。
25日(日)は通常どおり2本が運用に入り、5816レが1311F、5337レが1309Fでした。
西武秩父ゆき快速急行は二日間とも1239F+1241Fと3011F
先週に引き続き10月24日(土)と25日(日)ともに、3011Fが快速急行 西武秩父ゆきの1003レに入りました。
1001レも、二日間とも(<-飯能)1239F+1241Fでした。先週は、土日ともに3001Fでした。
大学の通学バスに西武バス
電車から外れますが、元加治駅と駿河台大学を結んでいる専用バスに"西武バス"(子会社にあらず)が入っていました。24日と25日の午後に見かけました。元加治駅前で西武バスは見たことはありません。両日ともに学園祭だったようです。
また25日午後、入間万燈まつり会場へ歩いていたら、大妻女子大学の通学バスが三重連でやってきました。中の一台は西武バス塗装でしたが、「大妻女子大学」と書いてありましたので、こちらは移籍したばかりだったのかもしれません。学園祭が開催されていました(数年前の大妻女子大学 狭山台キャンパスは近くに乳牛の牛舎があったり、なかなか良い田舎でした。今はどうでしょうか?)。
入間万燈まつりが開催
西武から外れますが、10月24日(土)・25日(日)に、池袋線・入間市駅近くの産業文化センターを中心に「入間万燈まつり」が開催されました。
山車や御輿が練り歩き、佐渡の鬼太鼓(オンデコ)もあったそうです(佐渡市と入間市は姉妹都市提携をしています。ほかにドイツ南部のヴォルフラーツハウゼン市とも姉妹提携していたと今 知った私は入間市民です)。議員さんが太鼓を叩く市議会の山車もあります。
なお「御輿」とは、配布していたパンフレットにならいました。今回が31回目ですが、その前は「商工まつり」と言っていたとは案内係の人のお話。公式サイトの由来説明によると、合併で誕生した市の一体感醸成のために始まったお祭りなようです。

2009年10月25日、入間市駅近くのけやき通りを進む山車など
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コメント
鈴木さんは入間の方でしたか。私の弟が入間市で一家を構えており、西武バスの運転手をしています。
幻の4ドア車について。ご指摘のとおりモハ401です。これについて、「1形式」とすべきを「1両」としてしまいました。1953年に事故廃車となったモハ63を3両買収し、1956年に所沢工場(なつかしい)でなんと複製を新製。計4両存在しました。1956年といえばそろそろ新性能車が国鉄や東急、小田急ほかでデビューし出した頃で、こんな時にモハ63のコピーを作るというのはいろんな意味ですごいこと。でも、こういった経験が西武の自社製造というすぐれた技術を習得したわけですから、馬鹿にはできませんね。
* 上記のコメント、本日18時に送信したはずなのに載っていなかったので、半分ぐらいの量になってしまいましたが、同じ趣旨のものを綴り、改めて送信します。
投稿: 縁有外史 | 2009年10月26日 (月) 22時10分
縁有外史さん、こんばんは。
401系については、三鷹事件の車両が西武にやってきた、というお話もあるようですね。
コメントが登録されると私にメールが届きますが、18時ころにはありません。登録が正常完了しなかったのだと思います。
投稿: 鈴木やす | 2009年10月26日 (月) 22時40分
先日、大正天皇のお話が出てきましたが、ただいま読んでいる加藤 陽子著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』に、以下の一節がありました。
大正天皇は鉄道オタクだったので、鉄道を
たくさん敷設するために頑張った原敬のことは
大好きだったのですが、山県は嫌われちゃうん
ですね。
著者は、山県有朋を比較的 評価しています。
またシベリア鉄道は当初 中国(満州)を通過していましたが、一般的には「東清鉄道」と呼ばれるわけですが、「中東鉄道」と著者は表記しているのも興味深かったです。「中東鉄道(東清鉄道とも呼ばれます)」と書いているところもありました。
「超電導」と「超伝導」の違いのようなものでしょうか?(物理学と電気工学で表記が違います、どっちがどっちだったかは忘れました)。
投稿: 鈴木やす | 2009年10月27日 (火) 22時36分
戦前には東武や名鉄そのほか小さな私鉄でも貴賓車をわざわざ作った路線があるわけですが、それは期待を込めてというものではなく、実際に需要(御乗用)があったからで、詳しいことは調べていませんが、おそらくは大正天皇が盛んに鉄道を利用し始めた明治後期から大正にかけて貴賓車の製造が集中していると思われます。利用されたのは1回きりで、そのあとは持て余して一般用に改造、格下げされた例(名鉄)もあり、昭和以降は国鉄のお召し用以外は急速に消えてしまいました。
鉄道オタクという言葉の意味や、大正天皇がそうだったのかどうかはよくわかりませんが、ただ鉄道が好きだった、乗ることが楽しそうだった、という今はやりの言い方をすると「乗り鉄」(なんか変な言葉だといつも感じています)だったことはまちがいなく、そのおかげで地方鉄道にも華やかな車両が誕生したきっかけとなったことは評価したいですね。
投稿: 縁有外史 | 2009年10月28日 (水) 05時41分
縁有外史さん、こんばんは。
よくは分かりませんが、皇居に幽閉されていると言えるかも知れないお立場の方ですので、列車に乗って外の景色を眺められるのは楽しい体験だったのでしょうね。
天皇お付きの写真家が、乗車した車両の台車や床下機器・室内を撮影してくれていたりすると面白いのですが。
投稿: 鈴木やす | 2009年10月29日 (木) 22時59分