09年11月1日、38106Fが西武・小手指車両基地に到着
鉄道ダイヤ情報によると2009年10月30日(金)に山口県の下松駅を発った西武30000系8両固定編成の6本目・38106Fが、11月1日(日)のお昼にJR武蔵野線の新秋津駅へ到着しました。
府中本町駅は11時47分ころの通過でした。牽引はEF65-1074でした。
東京競馬場で天皇賞があったということで、駅は込んでいました。
2009年11月1日、府中本町、EF65-1074+西武38106Fの甲種鉄道車両輸送列車(9861レ)。
ホーム端で撮影の方がいますが、列車はホームに接近していないので、そういう意味での危険はありません。落ちちゃう危険性はありますが、問題ないかと、念のため。
新秋津駅に12時5分ころに到着。側線に見に行くと、(<-飯能)E34+E31と、到着した甲種輸送列車が並んでいました。
新秋津~所沢間の線路脇で待っていると、E34+E31+38106Fは14時5分ころに通過して行きました。
上の写真を撮影したところで振り返ると、所沢駅6番線の場内信号が見えます。13時半ころには注意現示でした。
所沢駅の発車は14時16分でした。
14時35分ころに下り列車から小手指車両基地を見ると、ビニールで顔が覆われた30000系は建屋内、E34+E31は飯能方に止まっていました。
15時50分ころの小手指車両基地では、E31形電機2両は建屋の駅側に止まっていました。
そして18時1分、E31形電機2両だけの下り回送列車が仏子~元加治間を通過して行きました。
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コメント
このEF65がそのまま西武線に乗り入れたらなぁ、と思いました。ついでに西武が買収して、本格電機の存在を絶やさないでほしいものだ、と。
甲種回送の記録、有難うございます。
投稿: 縁有外史 | 2009年11月 1日 (日) 20時55分
以下のコメントがありましたので、削除しました。URLは伏字に変えました。
*** 引用ここから ***
おペーニスちょうだい!!!!!!
んなメールをフルテンションでいきなり送られて
今の女と始まったわけだが・・・
ずっとテンション高ぇから最近困ってんのよwwいやマジwww
ぶっちゃけ他にもいっぱい女いるしなー(^^;
でもやっぱなぁーウマいんだよなぁコイツが一番・・・
http://xxxxx.xxxx.xxxxx/xxxxx/
あー悩むうううううううう!!!!!!!
投稿: ぶっ飛びすぎwwwwww | 2009年11月 1日 (日) 21時40分
*** 引用ここまで ***
元コメントの投稿者の「おペーニス」は、よっぽど目立つのでしょうな。
投稿: 鈴木やす | 2009年11月 1日 (日) 22時15分
縁有外史さん、こんばんは。
263Fの登場は今回もありませんでした。喜んでいいのか、悲しむべきなのか、迷うところです。
投稿: 鈴木やす | 2009年11月 1日 (日) 22時17分
国分寺線の話
「鉄道業の現状」川越鉄道 のつづきです。
また、東京府下の巣鴨(=池袋。以下同じ)を起点とし、川越、高崎を経て渋川に通じる構想の東上鉄道の成立があり、さらには同じく巣鴨を起点として所沢を横断、入間郡飯能に達する電気鉄道の計画もあって、川越鉄道の営業地域を奪おうとする動きには将来必ず悪影響を及ぼすのは必至である。
そこで会社の自衛措置として、明治43年下半期の総会において、線路の延長とそれに伴う増資、つまり
一、入曽駅より分岐して入間郡豊岡町元加治村を経て飯能町に至る路線を延長すること
一、延長の許可を得た時は資本金25万円を増加して75万円とすること
を可決した。これにより延長線が完成したならば東上鉄道などによる損失は補うことができよう。しかし、八王子より川越を通り、熊谷を経て桐生に達する電気鉄道の計画もあることから、複数の路線に囲まれて旅客は将来減少するかもしれない。
ただ、貨物による収入は好成績を得ており、東上鉄道を除く他の路線が電気鉄道で旅客輸送を目的としていることから、川越鉄道が飯能線の計画を実施したならば、減収と増収が相殺されることから、はなはだしい悪影響はないものと思われる。
つづく
投稿: 縁有外史 | 2009年11月 3日 (火) 05時58分
上の人、祝日でヒマなのか、熱心なことで。
私も今日は少し時間があるので、早朝の連載の続きなぞ。
なお、鈴木さんご期待の多摩鉄道(多摩川線)は、ウィキペディアに書かれているので概要はすべて押さえられています。もちろん川越鉄道との車両の交流をはじめ、使用車両のことやこまかなこぼれ話は少なからずあります。それについてはいろいろ準備や順番もあるので、変遷や性格の把握程度ならば、とりあえずこれを参考にしておいて下さい。
国分寺線の話
「鉄道業の現状」の引用はまだ続きますが、今まで紹介したものをおさらいしておきますと、その名のとおり、川越鉄道は川越と都心を結ぶために、国分寺から甲武鉄道(この本が出版された時は官営の中央線)に乗り入れる形で敷設、経営は順調で、特に貨物輸送が盛んでした。
ところが、明治も終わり頃になるとさまざまな鉄道があるいは具体的に建設を始めたり、あるいは計画がなされるなどして、次第に川越鉄道の地域独占がゆらぎ始め出しました。特に脅威なのが東上鉄道。この鉄道は遠大な計画のもと設立され、当初の計画は起点が今の文京区、そして終点がなんと新潟の長岡というのだから、上越線を先取りしたようなものです。なお、計画の時点でいろいろあったことから、これもまたいろいろな資料や書物によって記載や説が異なり、私も断言はできませんが、第1期が渋川(つまり上州)、第2期がトンネルだらけの難工事が控えている区間で、終点が長岡というのが正確のようです。
それはともかく、都内と川越を最短距離で結ぶとなると、これはとても太刀打ちできないものとなります。ちなみに、池袋は当時はまさに田舎町で、こんなところに起点を置いてもあまり意味はないだろう、それに今に比べると通勤通学に列車を利用する人はとても少なく、そんなに影響はないように思われるかもしれませんが、当の川越鉄道が恐れをなしたことでわかるように、鉄道が出来、それが便利なものであることが知れると、人はそれを利用し出し、沿線にだんだん集まるようになります。
さらに武蔵野鉄道が設立され、これもまた池袋(巣鴨とありますが、当時は巣鴨・大塚界隈がとても繁華で、池袋のことを巣鴨に含めてとらえることが多かったようです。停車場の起点は池袋)を起点として所沢から飯能まで一直線に結ぶ計画であることもわかり、こうなると所沢や入間地域がすべてこれに奪われてしまう。
そこで、窮余の策として株主総会で発表されたのが、入曽から飯能までの新線を作る、というもの。これでは武蔵野鉄道と西の区間が競合してしまいますが、これなら増収につながるという自信があったようです。具体的な根拠が示されていませんが、旅客よりも貨物で物資や川砂利などの需要が見込めるからなのでしょう。
しかし、結果は計画止まり。やがて川越鉄道は西武のものとなり、西武によってややルートは変わりましたが、飯能までの新線が実現されたことはご存じのとおりです。 つづく
投稿: 縁有外史 | 2009年11月 3日 (火) 11時15分
以下のコメントがありましたので削除しました。URLは伏字にしてます。
*** 引用ここから ***
すげーwwwwwマジで金貰えたしwwwwww
なんすかこりゃーーーー!!!!!!
まさかの3 Pで報 酬 倍だしwwwwww
てか俺寝てただけだぞ? こんなんで稼げていいのかなwwww
月末までアポビッシリだから誰かヘルプしてくんね?(^^;
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投稿: おおおいいいいいいぃ!!!!! | 2009年11月 3日 (火) 09時26分
*** 引用ここまで ***
投稿: 鈴木やす | 2009年11月 3日 (火) 21時45分
縁有外史さん、こんばんは。
川越鉄道に飯能線の計画があったとは初耳でした。現在も本数は少ないですが、狭山市駅から飯能駅まで西武バスが走っています。入間川沿いで、昔からそれなりに人の流れがあったのかもしれません。
川越鉄道が東上鉄道や武蔵野鉄道に脅威を感じたのは事実でしょうが、甲武鉄道が1906年に国有化されたことも大きかったような気もします。
貴重な資料のご紹介、ありがとうございます。
投稿: 鈴木やす | 2009年11月 3日 (火) 22時02分