« 11年2月1日は西武狭山線と都電荒川線で意外なものに出会いました | トップページ | 2011年2月5日、最近の西武線 »

2011年2月 5日 (土)

2011年2月上旬、西武以外の身近な鉄道の話題をまとめて



オレンジ色と黄色の都電荒川線8800形


2011年2月4日(金)の朝、都電荒川線の8800形のうちオレンジ色の8809と黄色の8810を見ることができました。

この2両もパンタグラフの位置が逆でした。



2011年2月4日、学習院下~面影橋、オレンジ色の8809の早稲田ゆき。


2011年2月4日、学習院下~面影橋、オレンジ色の8809の早稲田ゆき。



2011年2月4日、学習院下~面影橋、黄色の8810の三ノ輪橋ゆき。


2011年2月4日、学習院下~面影橋、黄色の8810の三ノ輪橋ゆき。


荒川車庫は早稲田方と三ノ輪橋方の両方から入ることができるので、入った方から出ないと自然と車両の向きが反転してしまうわけですね。



高田馬場駅11時ころの貨物列車


2月5日(土)の11時3分頃、EF65-1072牽引のコンテナ貨物列車が高田馬場駅の山手貨物線を田端方向へ通過しました。2010年3月改正ダイヤでは2077レにあたる列車です。

2010年12月5日のJR東日本 ダイヤ改正で通過時刻が10分ほど遅くなりました。ダイヤ改正直後の1回だけEF210の牽引でしたが、例外だったようです。



110205baba


2011年2月5日 11時3分頃、高田馬場、EF65-1072牽引の北行 コンテナ貨物列車。


なお10時23分頃に通過する単機回送やその前の特急車の回送は、12月5日のダイヤ改正後は見かけません。最近はチェックしていませんが。



週刊金曜日の鉄道関係記事2本


どちらかというと左翼系の『週刊金曜日』に最近、鉄道関係の記事が二つありました。

1本目は、1月28日号の、JR西日本社内でのレイプ事件のお話。

2007年11月に、社員旅行の帰りに、契約社員の女性を上司の男性がホテルに連れ込み性的関係を強要した、というもの。被害者は脳性まひ・障害1級の重度障碍者。障害者雇用促進法によって同社が2006年に、1年単位の契約社員として採用したそうです。

加害男性は、事件後「しゃべったら次の契約はないぞ」と口止めし、関係の継続を強要したということです。

被害者は同社のセクハラ相談室に相談したものの、性暴力はなかったと結論されるとともに、職場で組織的なイジメも始まったとのこと。

神戸地方裁判所 龍野支部が2010年6月に性暴力はなかったと判決したため、被害者は大阪高裁へ控訴したそうです。

JR東日本でも契約社員の募集をたまにしています。駅員などに採用しているようですね。

2本目は、2月4日号のロンドンの鉄道のお話。

割引率が高いオイスター・カードというプリペイドカードが好評で、乗客の8割以上が利用しているそうですが、乗車駅と下車駅の両方で正しくカードリーダーに通さないと全区間分の運賃が罰金としてカードから引き落とされるそうです。

この罰金を2010年に支払った人は年間 延べ1300万人、罰金総額は5600万ポンド(約73億円)にのぼったそうです。ちなみに、西武鉄道の2009年度の売上高は約1700億円です。

ロンドンでは、改札ゲートがない駅や、夜間はゲートを開放している駅もあるということで、「物理的遮蔽物を強化して違反を防ぐのではなく、違反行為を『誘発』して罰金収入を増やす。それが英国流なのか。」と記事はしています。

このような信用乗車方式はヨーロッパでは一般的で、日本でも、路面電車に導入すれば表定速度を向上できると憧れているファン・関係者は多いと思います。「英国流なのか。」という批判に苦笑を禁じ得ない方も多いとは思います。

記事はイギリスの夕刊紙「イブニング・スタンダード」の1月7日付けの記事を元に、「英国在住活動家」さんが執筆されたものです。

Googleで検索したところ、2005年11月から2007年12月の2年間の罰金総額は3300万ポンドという記事もありました。当局は、このうち1800万ポンドが正規に支払われた場合の運賃にあたり、罰金としての徴収は1400万ポンドほどと見積もっているようです。

Googleで「"Oyster Card" penalty」で検索すると、結構あります(約31万件)。

ということで、2本目の記事は、事実の評価に「左翼的」な偏りがある感じはありますが、記載の数字は事実なのだと思います。

ということで、1本目の記事についても、嘘はないのでしょう。セクハラはJR西日本に限らずあることではありますし。


|

« 11年2月1日は西武狭山線と都電荒川線で意外なものに出会いました | トップページ | 2011年2月5日、最近の西武線 »

コメント

西武以外ではテレビに話題があります。2月3日の節分にTBS系のひみつの嵐ちゃんを見ました。VIPROOMのゲストは管野美穂が出て,一発ギャンブラーには松山ケンイチが出ました。この二人のうち管野美穂は同じ日にフジテレビのvs嵐に出て,松山ケンイチは嵐にしやがれに出ていました。特に管野美穂は同じ日に嵐の2番組に出るというのは珍しいです。
あと来週2月12日は小手指でバレンタインデーがありますね。実はこの日の日本テレビのぶらり途中下車の旅が有楽町線・西武池袋線をやります。旅人は初登場の俳優宮川一郎太なんですが、小手指に行くか、ぶらり終わってからの方がいいんでしょうか。教えてください。

投稿: 小手指嵐ちゃんクリニック | 2011年2月 5日 (土) 20時59分

みなさま、こんばんは。

このブログは@Nifytのココログの「鉄道」という小カテゴリーに登録しています。一覧に新着エントリーが載るはずですが、もう3時間も経つというのに載っていません。
( http://squares.cocolog-nifty.com/communities/27 )

ココログ全体の新着記事一覧でも、次の最新記事(無難な電車の話題だけ)は載っていますが、こちらは載っていません。

削除されているようなので、抗議しないとダメみたい。

どこがまずいんでしょうか、ね。

投稿: 鈴木やす | 2011年2月 5日 (土) 22時57分

小手指嵐ちゃんクリニックさん、こんばんは。

小手指のバレンタインは、遅く行くと、記念品のチョコレートが品切れになってしまうかもしれません、ね。

投稿: 鈴木やす | 2011年2月 5日 (土) 23時07分

みなさま、こんばんは。

@Nifytのココログの「鉄道」という小カテゴリーの新着記事一覧(http://squares.cocolog-nifty.com/communities/27)ですが、当ブログの最新エントリーも、載りませんでした。

22時6分と23時18分に更新されたブログさんは載っていますが、22時25分更新の当ブログ最新エントリーは載っていません。この一覧画面は1時間に1回程度 更新されています。

なお「鉄道」小カテゴリーのRSSでは、最新エントリーは配信されていました。こちらはリアルタイムに機械的に配信されているようです。ただ、一覧に載せないことになったら、RSS配信からも外されていることでしょう。

担当者の行動はお子様です。

投稿: 鈴木やす | 2011年2月 5日 (土) 23時40分

ご無沙汰しております。引き続き毎回楽しく拝見させていただいています。最近は小川-東大和市間での画像が時々掲載され、拙宅のすぐそばでの撮影ということで、ありがたいような感じです。撮影ポイントでもなんでもなく、ほとんど顧みられていない所だけによけいです。

鉄道以外の話題はほとんどが同感のものばかりで、“削除”の憂き目に遭われているのも、それだけその筋の者たちにとってインパクトがあるからでありましょう。
屈することなく続けて下さい。

ところで、宿題となっていた西武の白帯車について、やっと判明しましたので、ご報告させていただきます。

「交通年鑑」昭和22年版に各私鉄における占領軍専用車についてのまとめがあり、そのうち西武関連については、その当時における形式名でクハ1231形2両が指定され、敗戦直後の1945年9月29日からまず池袋-飯能間で、ついで10月1日から高田馬場-入間川間で毎日運行、となっています。
当初は半室が専用区域だったものの、すぐに全室となった由。
なお、画像による確認がまだとれていませんので、「白帯」が実際につけられたかどうかはここでは断言できませんが、占領軍からの指示では白帯によるサインをつけることとなっており、他の私鉄(実に全国22路線にわたります)では白帯がつけられている画像が多数あるので、西武においても右に倣ったことは想像に難くありません。

以上、もうとっくにお忘れの事と存じますが、当方ではずっと気になっていたことであり、西武史にとっては必要なことなので分かった範囲をご報告させて頂きました。

投稿: 縁有外史 | 2011年2月 6日 (日) 06時54分

縁有外史さん、こんばんは。

入間川駅と言うと現・狭山市駅ですね。現在の入間基地に占領軍の皆さんが向かわれることがあったのでしょうね。

地道な調査での判明、おめでとうございます。また、コメント、ありがとうございました。

小川~東大和市間は空が広く、列車は疾走するので、好きです。

投稿: 鈴木やす | 2011年2月 6日 (日) 20時16分

占領軍専用車両について、ウィキペディアに掲載されているものの、取り上げているのが国鉄の長距離優等列車が中心であること、タテマエ論にとらわれて実際の状況はさまざまであったという点がなく、これではいかにも占領軍の専用の列車だからすべて優遇されていたと思ってしまうので、この場を借りて2、3補足的な紹介などをさせて頂きます。
なお、ウィキで挙げられている参考文献3種のうち、最後の「吉村光央」は「吉村光夫」の誤りですね。先日無くなられたロングおじさん、京急の大先達です。

 占領軍専用の列車には3種類ありました。
 1・定期軍用旅客列車
 2・不定期列車
 3・定期増結
 1はウィキで詳しく紹介されているもので、国鉄の長距離列車がこれに当たります。
 2と3はおもに私鉄に要求されたもので、西武におけるのは3となります。
 2は、将兵を休養施設(レストキャンプ)に輸送するもので、おもに週末に運行されたほか、多客時にも臨時として運行されました。
 3は業務的なもので、東京付近の場合は都心と近郊の各軍事施設などを結び、通勤列車的な性格が強いものでした。こちらは毎日運行となっています。 つづく

投稿: 縁有外史 | 2011年2月 8日 (火) 05時47分

縁有外史さん、こんばんは。

国鉄の進駐軍専用列車については、10年ほど前でしたか、書籍が2冊ほど出ていたような気がします(車両と運転)。

アメリカの公文書館に資料が残っていたりしないかな、とお話を読んでいて思ったりもしました。

続きを楽しみにしております。

投稿: 鈴木やす | 2011年2月 9日 (水) 21時55分

[なぜ白帯か]
 占領軍専用車両の続きです。
 なぜ占領軍専用の車両に白帯が付けられたか。
 ご存じのように、国鉄では古くから車両に等級を表わす帯がつけられていて、3等が赤、2等が青、そして1等が白でした。
 この1等を表わす白帯が占領軍専用車を示すものとして使われることになりました。
 1945年10月、占領軍輸送司令部が国鉄大井工場を視察し、軍用として徴発した1等車に白帯がついていたことから、これがそのまま採用されたということです。
 ただ、物事にはなんでも原則があれば例外もあり、江ノ島電気鉄道(当時の社名)のように、毎日曜の定期列車を運行しながら白帯をつけなかった例もあります。

 また、白帯だけでなく、専用車には「US ARMY」の文字が記されたほか、電車の場合はさらに全室の車両は「CAR」、半室(区分室付車両)には「SECTION」が追記され、日本語の「米軍専用車」も加えられました。
 もちろん、これらの文字も白色で書かれました。
 と、ここで「おや?」と思われたと思います。
 そう、占領軍(進駐軍)はアメリカだけではありません。
 しばらくすると、イギリスなど他の参加国から「日本に駐留しているのは合衆国軍だけではない」との抗議があり、自分の手柄を誇りたかったアメリカもこれを無視するわけにはいかず、1946年11月、「ALLIED FORCES」および「連合軍専用車」に書き改められました。
 この表記の違いにより、その画像がいつの時のものかが判断でき、特に元の表記は短期間だっただけにレアものということができるでしょう。 つづく

投稿: 縁有外史 | 2011年2月10日 (木) 06時52分

縁有外史さん、こんばんは。

「連合軍」との認識は米軍に薄かったんですね。

面白いお話、ありがとうございました。

続きを楽しみにしております。

投稿: 鈴木やす | 2011年2月11日 (金) 21時17分

[有料だった]
 占領軍専用車両は当初は戦勝国側が召し上げたものとして、当然ながら乗客である占領軍将兵は無賃でした。
 ところが、この優遇措置は意外にも短期間だけで、1947年9月からは占領軍の将兵と家族ともども有料となり、2等の運賃を払わされることとなりました。
 白帯車は1等扱いですが、車両は上等なものは少なく(これについては別に述べますが、上等な車両を“温存”していたために損をさせられた路線があります)、酷使や資材不足で満足な補修のできない車両がほとんどだったので、2等の運賃は相応なもの、決して優遇ではないことがわかります。

[日本人も乗車可]
 有料化されたことに加え、同時期からは同じ2等運賃を払えば日本人も白帯車に乗ることが認められました。占領状態が長く続くことによる、一種の懐柔策だったようです。
 日本人の乗車可を表わす目印として、白帯の下、車体の腰板に黄色い円(黄球)が新たに加えられました。なぜ黄色なのか、理由はわかりませんが、日本人(東洋人)の肌の色を表わして「黄色人種」と言いますし、蔑視的な使われ方がされていることから、黄球が日本人の目印にされたのかもしれません。
 
 以上のように、占領軍専用車といっても、すぐに有料プラス日本人乗車可となったことは押さえておく必要があります。

 鈴木さんには喜んでいただけて光栄ですが、至らない所、不確かな点があり、満足のゆくものでないのは恥じ入るばかりです。 つづく
(本コメントは、西武をはじめ戦前から敗戦直後までの私鉄電車研究の大先達である中川浩一氏が「鉄ピク」誌の60年代に精力的に掲載されたものを元に、鉄道年鑑その他の文献を参考にしてまとめています)
 

 

投稿: 縁有外史 | 2011年2月11日 (金) 22時02分

縁有外史さん、こんばんは。

当時のアメリカで黒人は公民権を認められておらず、人種差別的な意識は多くの米兵にあったのでしょうね(戦場・占領地に多くの黒人兵もいたのでしょうが)。

ただ「黄色い円」については、人種差別からというよりは単に日本人は黄色人種だから、だったような気はします。「Yellow is beautiful.」と彼らが思っていたかは別として、です。

白帯車に日本人が乗れるようになったとは聞いたことがありますが、乗った人の感想は記憶にありませんが、実際のところ、乗った人はいたりするのでしょうか?

毎回、当ブログのコメントで読ませていただき、勉強になります。続きも楽しみにしております。

投稿: 鈴木やす | 2011年2月12日 (土) 21時44分

[無理難題の例]
 有料になったり、日本人の乗車も可となるなど、意外と日本側にすれば緩やかな感じの専用車ですが、もちろん一方では無理難題を吹きかけられた例もありました。
 その一例。
 まだ小田急や京王などが東急に統合されていた時のこと、占領軍から「新宿から海老名経由で横浜へ行く列車を走らせよ」という指示がなされました。海老名といえば今も厚木基地が占領を続けている所ですが、つまりはその海老名から新宿、横浜どちらへも行ける便利な列車を作れ、ということです。
 弱ったのは東急。新宿-海老名間は現小田急、海老名-横浜は現相鉄線なわけですが、当時いくら東急だったからといって、こんな列車は設定されていない。ほとんどの私鉄はクハを専用車に充てていましたが、それぞれの路線の定期列車にクハだけを海老名で分割・併合するのは不可能。
 そのため、東急ではわざわざ専用の電動車(デハ1160形5両)を専用車とした上で、これの単行および2両連結による専用列車としてわざわざ運行させました。
 やがて東急が元の各社に再分割(ご存じのように、この時、もともと小田急のものだった井の頭線が京王のものになりました)され、小田急が引き続きこの無理難題な列車の運行を相鉄との間で行いました。
 これを西武に例えると、池袋-所沢-高田馬場を結ぶ列車ということになりますが、さすがにこんな要求はなされませんでした。所沢では方向転換することなく行けるわけですから、その点では便利といえば便利ですが。

投稿: 縁有外史 | 2011年2月13日 (日) 06時43分

縁有外史さん、こんばんは。

相鉄は以前(と言ってもだいぶ前)、小田急の本厚木へ乗り入れていたと思いますが、そんな前史があったのですね。

同じ会社の路線なんだから直通なんぞ簡単だろうと言う、占領軍の担当者の安易な思い付きだったのに、占領下の敗戦国は一生懸命 対応したのかもしれませんね。新宿・横浜どちらへも行きたいのであれば、わざわざ直通させる必要はないわけですし。

今回も、勉強になりました。ありがとうございました。

投稿: 鈴木やす | 2011年2月13日 (日) 20時40分

[無理難題の例2]
 長野電鉄も占領軍専用車の運行を命じられました。
 なぜ長野電鉄などという路線に?と思ってしまいますが、これは同社が積極的な経営政策をしたために、それが損をすることになってしまった、そんな例の一つというわけです。
 長野電鉄は戦前、多額の経費をかけて志賀高原を観光資源として開発しました。これが占領軍の休養地として好適であると認定され、1945年11月、長野-湯田中間に専用電車を運転するよう指令されました。志賀高原が分捕られた上に、そこまでの専用電車を運転しろというのですから、中小私鉄としてはたまったものではありません。
 しかし、拒否することはできず、さっそく一般乗客用の車両を転用することとしました。
 車両不足は長野電鉄では深刻で、無蓋貨車まで客扱いに使うほど。それでも占領軍のための車両を努力してねん出しました。
 が、尊大というか横柄というか、サービスが極めて低劣である、上野発の国鉄列車に接続する列車を設定すべし、といった指令が担当の大尉名でなされました。サービスが悪いというのは、使用する車両が粗末であるという意味です。長野電鉄では必死になって無理難題な指令を実行すべく努力しましたが、こういう例はほかの路線でもたくさん見られます。

 ちなみに、前回紹介した海老名経由の専用列車もまた「ガラスが汚れている」「床油のひき方が多い/少ない」といった文句がいちいちなされ、そのたびに鉄道側では言われるとおりに対処しました。一般車ではガラスが無く、木の板が使われるほど荒廃していたのに、それを修繕するのも後回しで、軍用車を立派なものに仕立てました。

投稿: 縁有外史 | 2011年2月13日 (日) 22時32分

縁有外史さん、こんばんは。

長電は、観光客向けに国鉄から客車の直通乗り入れをしていた時期があったような気がしますが(戦後)、占領軍の輸送ではわざわざ専用車を用意させられたわけですか、大変ですね。

戦争には勝たないと、後が大変だと、しみじみと感じました。
# 戦争しないのが一番と思いますが。

投稿: 鈴木やす | 2011年2月15日 (火) 22時04分

[東武の場合]
 東武もまた無理難題を吹っ掛けられた路線の一つですが、あまりに無理すぎて実現しなかった要求がありました。
 1946年3月、東上線の上板橋から分岐してグラントハイツに達する専用線(啓志線)が完成しました。これに合わせて、ここから池袋までガソリンカーを走らせるように東武に要求しました。
 しかし、東武には当時、ガソリンカーなど持っていません。
 そこで、占領軍当局は運輸省に対して車両の提供を要求、運輸省は白帯をつけたキハ41000形10両を貸与し、30分間隔でグラントハイツ(啓志)-池袋間を走りました(1948年2月まで)。
 国鉄から大手私鉄へ気動車が10両貸与されたという例はもちろんここだけですが、やれば出来るじゃないか、ということで、軍当局は更に池袋から国鉄線を経由して東京駅までこのガソリンカーを運転しろと要求しました。そのルートは不明ですが、山手線から新宿で中央線に入るというルートだと思われます。
 しかし、都心の真ん中を軍専用のガソリンカーが走るというのは、物理的理由以上に目立ち過ぎて刺激的といった感情的な理由からこの要求は実現しませんでした。
 もし、これを安請け合いしていたら、各地に点在する基地や施設と東京駅を結ぶ専用列車を走らせろという要求が際限なく出され、グラントハイツは実現したのにこちらはなぜダメなのかといったことで収拾がつかない事態となったことと思われます。

投稿: 縁有外史 | 2011年2月16日 (水) 05時52分

縁有外史さん、こんばんは。

東武は気動車の運転士をどう確保したのかも気になりますね。

東京駅への直通運転は板橋あたりで東武と赤羽線(当時)は隣り合っていますし、やろうと思えば不可能ではないと思います。山手線・中央線の運転に邪魔になりそうで如何なものかとは思いますが、...。

占領軍に頑張ってもらっていたら、現在の鉄道地図はかなり違うものになっていたかもしれません。

投稿: 鈴木やす | 2011年2月16日 (水) 22時36分

 少し間があいてしまい申し訳ありません。身内に不幸があったりしたもので。

[無理難題の例 東武の場合2]
 日光は占領軍将兵にとっても魅力ある観光地だったらしく、「浅草と日光を結ぶ専用列車を運行せよ」という要求が東武に出されました。
 ただ、いきなりこういう要求が出されたわけではなく、それが可能である理由を占領軍がキャッチしたからでした。
 というのは、東武では戦前から日光特急の専用車両を保有し、貴賓車まで作っていました(たしか東武動物公園=元の杉戸=に今も保存されているはず)。このうちの2両が戦後すぐに日車東京支店で整備され、復活を待っていた。これに目をつけられてしまったのです。
 ただちにこの2両が召し上げられ、これだけでは毎日の運転には不足なので、運輸省を通じて国鉄から軍用2等車2両(オロ2345とオロ23156)が東武に貸し出され、それぞれの前後に電動制御車をつけて4両編成として運転が開始されました(1948年6月11日から)。
 これだけでも大変だったのに、列車ボーイの添乗、さらには他の一般列車はともかく、この専用列車だけは定時・安全運転をするよう命令されたというのですから、東武に対する命令はかなり調子に乗ったものでした。
 ただ、理由は定かではありませんが、この専用列車には白帯はつけられませんでした。東武側の最低の反抗、というわけでもないのでしょうが、4両編成の専用列車だととても目立つために、占領軍側で控えさせたのかもしれません。

 以上、西武にも白帯車が存在していたというご報告と、ついでにその周辺の話題を紹介しました。
 このほかにもいろいろありますが、断片的な資料の引き写しに終わってしまうので、あまり知られていないことが発掘された時などに、改めて紹介したいと考えています。

 皆さんの日々の車両の動静の熱心な記録を拝見するたびに教えられることばかりで、しかも一人だけ浮いているコメントに恥じ入るばかりです。古い話は興味ない、と言われればそれまでですが、管理人鈴木さんのご好意に甘えさせて頂いている次第です。

投稿: 縁有外史 | 2011年2月23日 (水) 11時06分

縁有外史さん、こんばんは。お返事が遅れて申し訳ありません。新しいコメントに埋もれていました。

戦争に負けると大変だなと実感する一方、勝ったほうにしても、日本の民主化に果たした役割は否定できませんが、これだけやりたい放題では興醒め、大義名分はどこへ行った、と実感できたコメント、ありがとうございました。戦争はダメですね。

縁有外史さんのコメントを楽しみにされていた方も多かったと思います。

次の機会を楽しみにしております。

投稿: 鈴木やす | 2011年2月27日 (日) 19時35分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 2011年2月上旬、西武以外の身近な鉄道の話題をまとめて:

« 11年2月1日は西武狭山線と都電荒川線で意外なものに出会いました | トップページ | 2011年2月5日、最近の西武線 »